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にほんブログ村 韓国百済の歴史と白村江の戦、そして福岡県水城堤との関連を紹介します

すがけいのブログの新着ブログ記事

  • 六六三年の白江もしくは白村江での 倭軍の大敗は無かった まとめ最終回

    六六三年の白江もしくは白村江での 倭軍の大敗は無かった   国滅びた百済では抵抗軍が活動し、豊璋が率いる百済救援軍(我が国の兵士が中心)も、これに合流します。 小うるさい抵抗軍殲滅のため、唐は孫仁師率いる兵力を百済に送り込みます。この兵力は、七千人です。 『青萊海之兵七千人』(旧唐書列伝東夷百済国... 続きをみる

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  • ●筑紫地域の数々の防御陣整備は、百済降伏の六百六十年から始まった  まとめその2

    ●筑紫地域の数々の防御陣整備は、百済降伏の六百六十年から始まった   九州では筑紫一族が大勢力を誇っていた時代(六世紀)があり、すでにその時代に、原太宰府地域(大宰府設置以前の地域)を中心として、柵、城といった防衛陣は構築されていました。 「柵」は木材を立て連ねて一定の地域を画した我が国の防衛施設... 続きをみる

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  • ●孝徳帝の後を継いだ斉明帝は、皇后であった間人皇女である まとめその1

    ●孝徳帝の後を継いだ斉明帝は、皇后であった間人皇女である  六六〇年七月に、百済国が唐と新羅の連合軍によって蹂躙され、首都扶余は焼け野原になってしまいます。 百済の滅亡と遺民の抗戦を知った斉明女帝は、我が国に滞在していた百済王子豊璋(百済義慈王の王子豊)を、百済に送り帰します。 そして、六六一年 ... 続きをみる

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  • 関西旅行の思い出 「えっ 扉が開かない」

    「えっ 扉が開かない」   あれは大学入試を終えたばかりだったから、昭和39年3月。窮屈な受験体制からやっと開放されて一息ついた私は、奈良県今市にある母の実家を訪問することにした。福岡県の小倉駅から夜行列車を利用して大阪駅へ、さらに奈良駅で桜井線に乗り換えて実家に近い帯解(おびとけ)駅に向かった。... 続きをみる

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  • 第三話 結論 車木ケンノウ古墳が皇極帝(宝皇女)の陵墓、そして牽牛子塚古墳が斉明帝(間人皇女)の陵墓だ

    4-3  二つの陵墓と二つの墓室が意味するもの これらの新しい発掘結果はさまざまな論議を呼んでいますが、新しい牽牛子塚古墳を皇極帝すなわち斉明帝(宝皇女)の陵墓と考え、古墳内にある二つの石室を、書紀天智称制六年条の記述どおり、宝皇女の墓室とその娘間人皇女の墓室とする考え方が、大勢を占めつつあります... 続きをみる

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  • 第三話 4 斉明帝の二つの陵墓が意味するもの

    4 斉明帝の二つの陵墓が意味するもの 書紀は天智称制六年(六六七年)条の二月、『斉明天皇と間人皇女を小市(おちの)崗上陵(おかのうえのみささぎ)に合葬し、同じ日、孫の大田皇女を陵の前の墓に葬った』と記しています。 この斉明帝の陵墓については、二〇一〇年九月に新しい発掘結果が公表され、斉明帝の二つ目... 続きをみる

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  • 第三話 3-3 間人皇女が斉明帝ではないか

    3-3 間人皇女が斉明帝ではないか   ここで疑問となるのは、中大兄皇子は六四五年(乙巳の変)から六六八年までの長い期間、何故皇太子のままでいなければならなかったのかということです。 孝徳帝の没後(六五四年)でも帝に就くことは可能だったでしょうし、斉明帝の没後(六六一年)すぐに帝となっても不思議は... 続きをみる

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  • 第三話 3-2 間人皇女(宝皇女の娘)を紹介しましょう

    3-2 間人皇女(宝皇女の娘)を紹介しましょう 間人皇女は、舒明帝と宝皇女との娘であり、孝徳天皇の皇后です。さらに中大兄皇子(天智帝)と大海人皇子(天武天皇)とは兄妹です。 この間人皇女に関連する書紀の記録では、六四五年に孝徳帝の皇后に即位したこと、そして六六五年に没したこと以外、書紀には登場機会... 続きをみる

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  • 第三話 3 斉明帝は宝皇女ではない

    3 斉明帝は宝皇女ではない 皇極帝と斉明帝とではその人間性が全く異なります。書紀では同一人物と伝えていますが、二人は異なる人物、つまり斉明帝は、「土木好きで好戦的なもっと若い女帝」ではないかと考えてみたらどうでしょう。 3-1 「中皇命」は一体誰でしょう    「中皇命(なかつすめらみこと)」とは... 続きをみる

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  • 第三話 2-3 女帝には愛情と冷淡の二面性があります

    2-3 女帝には愛情と冷淡の二面性があります   六五八年五月、中大兄皇子の子すなわち斉明帝の孫にあたる建王が、僅か八歳で亡くなってしまいます。この時の斉明帝の嘆きは甚だしく、『私の死後、必ず陵に合葬せよ』とさえ命じています。 そして斉明帝の詠んだ悲しみの歌が、 『今城(いまき)なる 小丘が上に ... 続きをみる

  • 第三話 2-2 老女帝はとても好戦的です

    2-2 老女帝はとても好戦的です   また老女帝とは思えない精力的な行動で、北は蝦夷と戦い、そして南は海を越え朝鮮半島百済国への出兵を目指します。   (一)蝦夷の征討 書紀の斉明帝四年(六五八年)条から六年(六六〇年)条にかけて、阿倍引田比羅夫による蝦夷征討記が以下のように記載されています。 『... 続きをみる

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  • 第三話 2 斉明帝は不思議な老女帝

    2 斉明帝は不思議な老女帝      皇極帝(宝皇女)が孝徳帝に譲位した「生前譲位」も史上初めてなら、斉明帝(宝皇女)として再び即位する「重祚」という即位形式も、史上初めての出来事です。帝位の継承形式において、二つも初めての形式が、この宝皇女時代に出現していることも不思議ですが、同一人物であるはず... 続きをみる

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  • 第三話 1-3 宝皇女(斉明帝)の再登場(重祚)

    1-3 宝皇女(斉明帝)の再登場(重祚)(六五五年~六六一年)   孝徳帝の崩御により、廃位に追い込まれたはずの宝皇女が、六五五年正月飛鳥板葺宮で再び帝として即位(重祚)します。これが斉明帝です。 この時、宝皇女は既に六十二歳になっています。この時点では、山背大兄王も古人大兄皇子も既に殺害されてい... 続きをみる

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  • 第三話 1-2 孝徳帝(宝皇女の弟)の即位(六四五年~六五四年)

      1-2 孝徳帝(宝皇女の弟)の即位(六四五年~六五四年)   六四五年に即位した孝徳帝は、阿倍倉梯麻呂を左大臣に、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣に、そして旻(みん)法師(ほうし)と高向玄理を国政一般担当の国博士に任じ、新しい国政を開始します。 我が国では初めて元号を立て、六四五年を「大化元年」と定... 続きをみる

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  • 「第三話 斉明帝はいったい誰だ」を始めます

    第三話 斉明帝はいったい誰だ   『第一話』『第二話』でも取り上げましたように、斉明帝は百済救援に向けて我が国からの海外派兵を陣頭指揮した女帝です。ただこの女帝に関しては、やや不可解なことが多すぎるのです。   1 皇極帝から斉明帝まで 1-1 皇極帝(宝皇女)時代(六四二年~六四五年) 『日本書... 続きをみる

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  • 鞠智城について その2

    7-2 鞠智城の築城意図(私論) しかし、大宰府羅城を構築する大野城、基肄城からみると、兵站基地であれ軍事基地であれ、鞠智城は極めて遠すぎるという難点があります。九州道太宰府ICから菊水ICまで六十七キロありますから、仮に直線的に移動したとしても徒歩では丸二日強(日中の徒歩移動は時速三キロ×十時間... 続きをみる

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  • 7 鞠智城について その1

    7 鞠智城について    『二人の筑紫人と白村江の戦』においては、鞠智城の存在は視界外でした。しかし発掘の進んだ最近では「白村江の戦」との関連性も認知されつつあるようです。ですから私なりの鞠智城の位置づけを述べておきましょう。   7-1 鞠智城の築城時期(定説)  鞠智城は七世紀頃に、現在の熊本... 続きをみる

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  • 阿蘇高森の湧水トンネル七夕祭りを見学しました

     阿蘇高森の湧水トンネル七夕祭りに行ってきました  このトンネルは昭和48年に掘削が開始されたのですが、出水が激しく中断された鉄道トンネルです。  計画全長 6キロのうちおよそ2キロまで掘り進められたそうです   トンネル内は17度という涼しさで とても快適です  このひんやりとした空間に七夕の飾... 続きをみる

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  • 「百済歴史遺跡地区」を見る  その2

     扶餘郡では官北里遺跡、扶蘇山城、陵山里古墳群、定林寺址、扶餘羅城が対象となりました。  さて この 扶餘ですが、五三八年に聖王が、都を公州熊津から錦江下流の泗沘(忠清南道扶餘郡)へ南遷した街でもあり、百済最後の首都でもあります。(なお新羅による半島統一後、泗沘は扶餘郡と改称され、現在では扶餘と呼... 続きをみる

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  • 「百済歴史遺跡地区」を見る

    国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産委員会は、7月5日(日本時間10時)から、日本が世界文化遺産に推薦する「明治日本の産業革命遺産」について審議し、登録することを決定しました。韓国との小競り合いが続き、ぎりぎりの登録でした。何はともあれ おめでとうございます。 また前日には、韓国の「百済歴史... 続きをみる

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  • 一休みして、メキシコ料理に挑戦です

    一休みしてメキシコ料理に挑戦です  私は昨年10月から、メキシコのガナファット大学に 2年間行く予定でした(ジャイカ・シニアーボランティア)。残念ながら 妻の突然の発病・手術により 悔しい想いで渡航を断念しました。  そんなわけで メキシコには強い思い入れがあります。  7月3日に町内会で「男の料... 続きをみる

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  • 6 「水柵(みずき)」から「水城(みずき)」への変遷  その2

    第二段階(六六〇年~六六三年)   百済降伏(六六〇年)の報を受け、斉明帝は筑紫遷宮を命じた。遷宮地は「水柵」に守られた原太宰府地域と定められ、斉明帝行宮(朝倉橘廣庭宮)の防衛強化のため、水柵、大野城、基肄城の改修工事が、高句麗系技術者の手を借りて六六〇年秋から開始された。(繕修城柵、断塞山川) ... 続きをみる

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  • 6 「水柵(みずき)」から「水城(みずき)」への変遷

    6 「水柵(みずき)」から「水城(みずき)」への変遷  以上のような認識から、私論としての結論は次のとおりです。 第一段階(六世紀) 大和政権以前の九州勢力によって、初期段階の水城堤、大野城、基肄城、および九州内の神籠石山城は、既に六世紀に築造されていた。 九州勢力には、磐井の乱(五二八年)で敗れ... 続きをみる

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  • 5. 推論を裏付ける二つの外交情報

    5. 推論を裏付ける二つの外交情報    水城堤築造に関する私の結論を述べる前に、その前堤となる二つの情報を紹介します。  5-1 第四回遣唐使の帰国とその情報     六五九年八月に出発し、約一年六か月もの間、唐に滞在した第四回遣唐使が何を見聞したかは、重要な情報です。   六六〇年夏に百済国は... 続きをみる

  • 4 「水城堤築造二段階説」登場

    4 「水城堤築造二段階説」登場  実は二〇一一年春に「水城堤築造二段階説」が、九州歴史資料館によって発表されました。 発掘調査の結果、土塁の基底部(幅八十メートル高さ二メートル)と、その上の土堤本体(幅二十メートル高さ七メートル)とは、土を突き固める工法および土質が異なる、と確認できたのです。 そ... 続きをみる

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  • 3 定説への疑問

    3 定説への疑問   3-1 工期に関する疑問   工期への疑問については従来から存在していました。六六三年夏の白村江の敗戦後着手し、水城堤が六六四年完成、大野城、基肄城が六六五年夏完成では、三つの大規模構造物の総工期が丸二年しか存在しません。技術的にはかなり困難な工程です。 しかも三つの構造物は... 続きをみる

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  • 2. 水城堤築造時期の記録

    2. 築造時期の記録 築造時期に関しては、『日本書紀』(以下書紀と略す)にしか記述されていません。これらの大規模構造物に関する書紀の記録を、まず紹介しましょう。   2-1 水城堤・大野城・基肄城の築造時期 天智三年(六六四年)是歳(このとし)条には 『筑紫に大堤を築き水を貯えた。名を水城という』... 続きをみる

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  • 第二話 水城堤は三段階で築造された 1. 水城堤および九州の山城

    第二話 水城堤は三段階で築造された  白村江の戦(六六三年八月)において唐・新羅軍に大敗し、勢いに乗る唐の侵攻を恐れた我が国は、筑紫の地に筑紫防衛ライン(水城堤・大野城・基肄(きい)城)を構築します。  水城堤が、六六三年の白村江での大敗を契機として築造されたことは、殆ど否定する人のないくらい常識... 続きをみる

  • 第一話 4 白村江の大敗は無かった

    4 白村江の大敗は無かった   以上のような認識から、私論としての結論は以下のとおりです。   親百済派 斉明女帝の崩御(六六一年七月)を契機に、国破れた百済王族の悲哀を知る穏健派により、勝ち目の無い百済派兵は中断された。 その結果、白江の戦(六六三年八月)は、唐将劉仁軌軍と百済王子豊璋軍(倭人を... 続きをみる

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  • 第一話 3-7 敗戦国として処遇されていない

    3-7 敗戦国として処遇されていない かりに白江の戦で大敗を帰し、我が国が唐の敗戦国であったとするならば、その処遇において矛盾が生じています。 唐の敗戦国への基本的な処遇は、都護府設置による羈縻支配です。羈縻支配は周辺諸国において既に手馴れた手法であり、我が国に適用することは十分可能であったはずで... 続きをみる

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  • 第一話 3-6 唐からの援軍は七千人だった

    3-6 唐からの援軍は七千人だった   ところで、『旧唐書劉仁軌伝』では六六三年の戦をどう伝えているでしょうか。私の読み下しを示します。 『(百済)扶餘豊は福信(抵抗軍の主力将軍である鬼室福信)を殺害した。また高句麗と倭国に兵を送るよう使いを出した。(百済復興軍の勢いが増し、劉仁軌は本国唐へ救援軍... 続きをみる

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  • 第一話 3-5 百済亡国の悲報は早々と届けられていた

    3-5 百済亡国の悲報は早々と届けられていた   大国唐と戦う恐さは、今では想像できないほど大きいと思います。よく日米開戦を引き合いに出す方もおいでですが、状況は全く違います。やっと国家の体を成しはじめ、政治制度や法制度、都形態や宗教・医術・文化まで見習うお師匠さまに立ち向かうのは、横綱と小学生の... 続きをみる

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  • 第一話 3-4 大本営はすでに飛鳥に帰っていた

    3-4 大本営はすでに飛鳥に帰っていた   斉明女帝を筆頭に筑紫にやってきた大和政権。この遷宮開始は六六一年一月のことです。前年の六六〇年夏には百済が降伏していますから、この筑紫入りもちょっと不思議ですが、正確な情報が届いていなかったと考えておきましょう。 少なくとも筑紫入りの頃には、朝鮮半島へ兵... 続きをみる

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  • 第一話 3-3 当時の我が国に水軍は存在しなかった

    3-3 当時の我が国に水軍は存在しなかった 我が国で海上での戦といえば、案外数少ないことにお気付きですか。河川を挟んだ戦はありますが、海上となると、織豊時代以前では秀吉の文禄・慶長の役(一五九二~一五九八年)、厳島の戦(一五五五年)、蒙古軍が襲来した文永(一二七四年)弘安の役(一二八一年)、そして... 続きをみる

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  • 第一話 3-2 当時の我が国に万余の出兵は無理である

    3-2 当時の我が国に万余の出兵は無理である 書紀によれば六六三年だけでも、単純足し算で三万七千人の兵力を渡海させたことになっています。さてこの頃の我が国に、これだけの多くの兵を海外に送る体力があったでしょうか。 兵士数に関する記録は少ないのですが、七六一年西海道使 吉備真備の記録として九州八カ国... 続きをみる

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  • 第一話 3 定説を否定する理由

    3 定説を否定する理由 3-1 定説の小さなほころび 『唐書』にも記録され、書紀にも描かれている「白江の戦」あるいは「白村江の戦」ですから、定説は正しいと捉えるのは当然だといえます。 しかしこの鉄壁の定説に小さなほころびが存在するのです。それは戦の合理的な動機が見当たらないことです。 危険な対馬海... 続きをみる

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  • 第一話 2『唐書』等が示す百済派兵と白江の戦

    2 『唐書』等が示す百済派兵と白江の戦 2-1 『日本書紀』による百済救援軍の派兵規模 『日本書紀』(以下書紀と略す)では、我が国から百済への派兵規模を次のように記録しています。 ①六六一年八月、前軍後軍の二軍編成による派遣(兵力不明) ②六六一年九月、百済王子豊璋に兵五千余を付けて送る ③六六二... 続きをみる

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  • 第一話 1-2 唐の百済侵略と高句麗攻略

    1-2 唐の百済侵略と高句麗攻略 朝鮮半島に眼を移すと、高句麗と百済そして新羅の三カ国がそれぞれの領土占有を巡って、常に小さな争いと外交課題が存在しながらも、三竦みの微妙な均衡感を保っていた時代でした。 高句麗への北側からの攻撃で失敗を繰り返した唐は、南側からの攻略を考え、その第一歩として目障りな... 続きをみる

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  • 第一話 白村江の大敗は無かった 1-1 中国(隋・唐)と高句麗の確執

    第一話 白村江の大敗は無かった   六六〇年、百済国は唐・新羅連合軍に破れ国家は降伏しますが、百済復興を願う民が抵抗軍を組織します。我が斉明女帝は大和から筑紫に遷宮(朝倉(あさくら)橘廣庭宮(たちばなひろにわのみや))し、百済救援軍の派遣を指揮。しかし朝鮮半島白村江の海戦(六六三年八月)において唐... 続きをみる

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  • 旅紀行;扶餘の街と太宰府の街、そして防御構想

    旅 扶餘の街と太宰府の街、そして防御構想 百済の古都 扶餘の街を散策して歴史の息吹が数々残っている穏やかな街として、古都太宰府との共通点を肌身に感じ取ることが出来ました。そういう意味で扶餘郡と太宰府市が姉妹都市として交流を積極的に継続することには大いに賛同できます。 但し、扶蘇山城・白馬江に守られ... 続きをみる

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  • 序話 3-2  百済都城の変遷

    3-2 百済都城の変遷 百済の都城変遷の歴史は、むしろ悲劇の歴史です。 (一)漢城時期 四世紀の百済の都は、漢江下流南岸にあり、漢城と呼ばれていました。 漢城時代の百済は、南側に拡大を続ける高句麗との死闘を繰り返していましたが、四七五年には首都漢城を落とされ蓋鹵王が戦死してしまいます。 (二)熊津... 続きをみる

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  • 序話 3-1 高句麗都城の変遷

    3 都城の変遷と我が国への影響 3-1 高句麗都城の変遷 高句麗の築城技術は、九州の山城や大宰府羅城に大きな影響を与えていると考えます。 (一)卒本城時期 高句麗を建国した朱蒙(チュモン)が定めた首都卒本(ソルボン)の地は、現在の遼寧省本渓市であり、都城の卒本城は五女山山城に比定されています。 (... 続きをみる

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  • 序話1,2 七世紀の中国と朝鮮半島

    序話 七世紀の中国(唐)および 半島三国(高句麗、新羅、百済)を知る  1  巨大な大唐帝国 七世紀に我が国が白村江で戦ったという中国唐国ですが、この時代の唐は、実に巨大な大帝国でした。特に第二代太宗の時代は、「貞観の治」と呼ばれる安定した政治が行われ、版図を大きく広げました。 その版図の拡大にお... 続きをみる

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  • はじめに 百済をめぐる三つの講話です

    はじめに  七世紀に活躍した二人の筑紫人、すなわち伊吉(いき)博徳(はかとこ)と大伴(おおとも)部博(べはく)麻(ま)を主人公にした小説『二人の筑紫人と白村江の戦』の出版以来、幸いなことに講話を依頼される機会が増えました。 主題とした「白村江の戦」(六六三年)、あるいは表紙の『筑前国大宰府水城切堀... 続きをみる

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