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第三話 3-2 間人皇女(宝皇女の娘)を紹介しましょう

3-2 間人皇女(宝皇女の娘)を紹介しましょう


間人皇女は、舒明帝と宝皇女との娘であり、孝徳天皇の皇后です。さらに中大兄皇子(天智帝)と大海人皇子(天武天皇)とは兄妹です。
この間人皇女に関連する書紀の記録では、六四五年に孝徳帝の皇后に即位したこと、そして六六五年に没したこと以外、書紀には登場機会が殆どありません。
なお天智称制四年(六六五年)二月条には『間人大后薨(かむさ)りましぬ』とあります。大后とは皇太子を儲けた皇后の尊称ですから、この時点で大后と呼べるのは中大兄皇子を儲けた宝皇女しか該当せず、書記の記述に何故か混乱がみられます。
書紀においては記録の少ない間人皇女ですが、幾つか気になる点があります。それは間人皇女の年齢と性格に関するものです。
 
(一)間人皇女の年齢について
間人皇女は中大兄皇子の妹と位置づけられていますから、中大兄皇子生誕の六二六年よりも後に生まれているはずです。仮に三歳下だと考えると、孝徳帝の皇后に就いた六四五年には未だ十七歳という若さになります。
もちろん、この時代十七歳で后になることは珍しいことではありませんが、やや不自然な感じを受けるのは、夫となる孝徳帝の年齢が既に四十九歳にもなっていたことです。
間人皇女は宝皇女の娘ですし、孝徳帝は宝皇女の弟ということを考えますと、三十二歳も歳が離れた婚姻を推し進めなければならなかった母 である宝皇女の気持ちが分かり難いのです。
書紀の舒明二年(六三〇年)春条には、天智、間人、天武の順に紹介されています。このため定説として、間人皇女は天智帝すなわち中大兄皇子の妹であると考えられています。
しかし、この記載が年齢順であると言い切れるかどうかは疑問です。
そこで、宝皇女の出産年齢を検討して見ましょう。宝皇女が中大兄皇子を産んだのは数え年で三十三歳の時です。当時の食事情や医療技術を考えますと、これでさえかなりの高齢出産でしょう。
資料の存在する聖武、淳仁、光仁、桓武の天皇四代(七二四年~八〇六年)における、帝妃四十三人の出産状況を調べてみますと、十代あるいは二十代前半での出産が多く、最高齢では三十歳での出産が二事例という状況でした。
このように高齢出産が稀有であるのは、往時の栄養状況もさることながら、一夫多妻制が大いに影響していると考えます。ある一定の年齢に達すると夫と床を一緒にしない、いわゆる「お褥(しとね)下がり」があったからでしょう。
例外はいつの世でも存在しますから断定はし難いのですが、三十三歳の宝皇女が中大兄皇子を産み、さらにその後、間人、大海人を出産したとは考えるのはかなり無理を感じます。
私は、間人皇女と中大兄皇子の長幼の順は、逆だと考えます。
すなわち、間人皇女は中大兄皇子よりも一回り近く歳の離れた年上の姉(宝皇女二十代前半の子)だと考えれば、皇后即位時の年齢の若さや、中大兄皇子の即位が異常に遅れた理由も頷けるのです。(なお大海人皇子については、宝皇女の血統とは私は考えていませんが、その理由についてはここでは省略させて頂きます)
 
(二)間人皇女の性格について
間人皇女を詠った孝徳帝の歌が、白雉四年(六五三年)是歳条にあります。
『金木着け 吾が飼ふ駒は 引出せず 吾が飼ふ駒を 人見つらむか』
(木にくくりつけて逃げないように大切に飼っていた馬が、私の知らない間にどうして他の人と親しくなって、私のもとから連れ去られてしまったのだろう)
この孝徳帝の歌は、中大兄皇子が難波宮から一族を飛鳥に連れ帰った六五三年の飛鳥事件の直後に詠まれ、自分の手元から去っていった間人皇后への愛しみと恨みの想いが含まれているように感じ取れます。
この飛鳥事件の時、五十七歳の孝徳帝から見ると、間人皇女は牝馬に例えるに相応しいくらい活動的な女性だったのでしょう。この間人皇女の描写は、「土木好きで好戦的な若い女帝」という斉明帝のキーワードと、一致していると私は考えます。
 

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