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7 鞠智城について その1

7 鞠智城について
 
 『二人の筑紫人と白村江の戦』においては、鞠智城の存在は視界外でした。しかし発掘の進んだ最近では「白村江の戦」との関連性も認知されつつあるようです。ですから私なりの鞠智城の位置づけを述べておきましょう。
 
7-1 鞠智城の築城時期(定説)
 鞠智城は七世紀頃に、現在の熊本県北部(山鹿市、菊池市)に築かれた山城です。城の周長は三キロ半、面積は内城五十五ヘクタール、そして外縁地区六十五ヘクタールと推定されており、規模としては中規模な山城と位置づけられます。
 さらにこの山城では全国的に珍しい「八角形鼓楼」(鼓楼は七世紀末から八世紀前半の建造物)の復元が行なわれており、この第二期建築物が鞠智城のシンボルともなっているのです。(なお高句麗の丸都山城の遺跡において、二棟の八角形建築物跡が発掘されています)


 『続日本書紀』の文武天皇時代の修築記事(六九八年)において、初めて鞠智城の名が正史に登場します。
『大宰府に命じて大野城、基肄城、鞠智城の三城を繕治する』
しかし、築城年の記載がないこともあり、白村江の戦で唐・新羅の連合軍に敗れたため、その来寇に備える兵站基地として築城されたものであろう、というのがほぼ定説になりつつあります。
 また、百済系瓦の出土などから、大野城、基肄城と同じく鞠智城は百済人の関与も想定されています。


 定説は、修復記事において大野城、基肄城、鞠智城と出現しているから、築城も大野城、基肄城と同じような意図で同時期に築城されたという考え方です。

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