第三話 3 斉明帝は宝皇女ではない
3 斉明帝は宝皇女ではない
皇極帝と斉明帝とではその人間性が全く異なります。書紀では同一人物と伝えていますが、二人は異なる人物、つまり斉明帝は、「土木好きで好戦的なもっと若い女帝」ではないかと考えてみたらどうでしょう。
3-1 「中皇命」は一体誰でしょう
「中皇命(なかつすめらみこと)」とは、中継ぎ的に皇位を継いだ人物の意味だと理解されます。この中皇命の歌が『万葉集巻一』に、五首登場しています。
その内二つの歌(三番と十番)には、次のような題詞が付けられています。
三番 天皇内野に遊猟したまえる時、中皇命の間人連老をして献らせ給う歌 (天皇遊猟内野之時中皇命使間人連老献歌)
十番 中皇命の紀の温泉に往でます時の御歌
(中皇命往干紀温泉之時御歌)
この題詞に登場する「中皇命」が誰であるかについて古くから論争があり、「宝皇女説」、宝皇女の娘「間人皇女説」、それに天智帝の皇后「倭姫説」があります。
「宝皇女説」は、斉明帝そのものが中皇命と捉えられていたという考え方です。
「間人皇女説」は、斉明帝崩御(六六一年)後、兄の中大兄皇子に擁立され、女帝として皇位に就いたという考え方です。なお、「間人」と云う名前は、丹後国竹野郡間人郷にちなむ名前で、この地に住む間人連(はしひとのむらじ)といわれた部族の娘が乳母となったので、この名があるものと考えられます。
「倭姫説」の場合は、やや時代は降りますが、夫である天智帝崩御(六六八年)から、壬申の乱(六七二年)で勝利した大海人皇子が天武天皇として即位するまでの期間、天智帝を引き継いだ女帝だったのではという考え方です。
中継ぎ的に皇位を継いだという意味では、確かに三人とも中皇命であった可能性はあります。
しかし『万葉集』三番の題詞に注目してください。『中皇命の間人連老をして献らせ給う』とあります。このように中皇命には、いつも間人郷出自の間人連老が供をしていた様子が伺えます。
すなわち、中継ぎ的に皇位を継いだ中皇命とは、宝皇女の娘である間人皇女の可能性が最も高いといえます。
書紀では間人皇女が皇位に就いたとは全く記していませんが、『万葉集』では間人皇女が女帝であった可能性を示しているのです。