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「第三話 斉明帝はいったい誰だ」を始めます

第三話 斉明帝はいったい誰だ
 
『第一話』『第二話』でも取り上げましたように、斉明帝は百済救援に向けて我が国からの海外派兵を陣頭指揮した女帝です。ただこの女帝に関しては、やや不可解なことが多すぎるのです。
 
1 皇極帝から斉明帝まで


1-1 皇極帝(宝皇女)時代(六四二年~六四五年)


『日本書紀』に登場する宝皇女(すなわち皇極帝でもあり、斉明帝でもある)は、極めて不思議な女帝です。
彼女は、夫である舒明帝崩御により六四二年一月に四十九歳で帝位に就いています。皇后の即位という点では推古帝に次ぐ、史上二番目の女帝誕生になります。
六四一年の舒明帝崩御時、帝位に就くべき有力な候補者は、舒明帝の長子古人(ふるひとの)大兄(おおえの)皇子(みこ)、舒明帝とも王位を争った厩戸(うまやどの)皇子(おうじ)を父に持つ山背(やましろの)大兄王(おおえのみこ)、そして舒明帝と宝皇女の間に産まれた中大兄皇子の三人がいました。
これらの有力な候補者を押し退けて、女性である宝皇女が皇極帝として皇位に就けたのは、当時の実力者蘇我蝦夷、入鹿親子の意向が強く反映されたと考えてよいでしょう。


書紀の皇極元年(六四二年)八月条には『雷なりて大雨ふる』と、皇極帝による雨乞いの成功が記載されているところから類推しますと、この女帝は祭祀における霊的能力を有していたとも考えられます。また長野善光寺(長野県)の『善光寺縁起』にも登場しています。
皇極帝時代には、蘇我蝦夷が大臣として重んじられ、その子入鹿が自ら国政を執って蘇我氏本家の絶対的繁栄時代をもたらしますが、宝皇女が帝位についた経緯を振り返れば当然のことだといえるでしょう。
ところが六四五年六月に乙巳(いっし)の変が起こり、中大兄皇子らが宮中で蘇我入鹿を討ち、翌日、入鹿の父 蝦夷が自害してしまいます。
突然に蘇我時代が終焉し、大きな後ろ盾を無くした五十二歳の宝皇女はその帝位を降り、一歳年下の同母弟である軽皇子が、六四五年六月に孝徳帝として即位することになります。


帝位は神代紀から終身制が大原則であり、帝位の「生前譲位」は帝史上これが初めての事例です。実態としては、皇極帝は改革派によって廃位に追い込まれたと解釈したほうが分かりやすいでしょう。
 

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