すがけいのブログ

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村 韓国百済の歴史と白村江の戦、そして福岡県水城堤との関連を紹介します

●筑紫地域の数々の防御陣整備は、百済降伏の六百六十年から始まった  まとめその2

●筑紫地域の数々の防御陣整備は、百済降伏の六百六十年から始まった
 
九州では筑紫一族が大勢力を誇っていた時代(六世紀)があり、すでにその時代に、原太宰府地域(大宰府設置以前の地域)を中心として、柵、城といった防衛陣は構築されていました。
「柵」は木材を立て連ねて一定の地域を画した我が国の防衛施設を意味し、『唐書日本伝』では、『国に城郭なく木を連ねて柵をなす』とあります。ですから「水城」の前身の構造物は「水柵」でしょう。
 
百済降伏(六六〇年)の報を受け、若き斉明女帝は筑紫遷宮を命じます。遷宮地は「水柵」に守られた原太宰府地域と定められ、斉明帝行宮の防衛強化のため、水柵、大野城、基肄城の改修工事が、高句麗系技術者の手を借りて六六〇年秋から開始されます。
 
筑紫遷宮プロジェクトと筑紫防衛強化プロジェクトは、別々のプロジェクトではなく、友好国百済国の降伏情報を契機とした、同時期の総合プロジェクトでしょう。
 
水城堤の改修工事は三年半の歳月を掛け、六六四年春に完成。
 
六六四年五月に来訪した唐使郭務宋は、完成された水城堤の西門(大宰府官道)を通り、筑紫大宰府を訪問し、その防御の完璧性を本国に伝えます。
この報告により、唐は我が国に対する武力的な侵攻は諦め、友好の使節である劉德高の来訪(六六五年九月)と続きます。(第二話 参照)
 
さて、六六一年五月に、第四回遣唐使は二年弱の唐滞在(六五九年八月~六六一年五月)を終え帰国しています。六六一年三月に斉明女帝は筑紫入りしていますから、筑紫の地で遣唐使節から詳細な情報が報告されています。
遣唐使節は
①百済国が降伏したこと
②百済王族・臣下五十人が、唐の洛陽に連行されてきたこと
③百済の地には都督府が設置され、百済は既に唐の属領となっていること
を伝えています。






 
大国である唐と戦う恐さを知った大和政権は、派兵推進の「攻め」から、国を守る「守り」へと舵を切り、派兵推進派筆頭の斉明女帝を暗殺し、友好派の中大兄皇子に権限を委ねます。

×

非ログインユーザーとして返信する