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第三話 1-2 孝徳帝(宝皇女の弟)の即位(六四五年~六五四年)

 
1-2 孝徳帝(宝皇女の弟)の即位(六四五年~六五四年)
 
六四五年に即位した孝徳帝は、阿倍倉梯麻呂を左大臣に、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣に、そして旻(みん)法師(ほうし)と高向玄理を国政一般担当の国博士に任じ、新しい国政を開始します。
我が国では初めて元号を立て、六四五年を「大化元年」と定め、翌六四六年には改新之詔を発して、公地公民や班田収授之法ら数々の積極的な制度改革方針を打ち出します。


姉(宝皇女)の娘である間人(はしひとの)皇女(ひめみこ)を皇后にするとともに、左大臣阿倍倉梯麻呂の娘小足(おたらし)(ひめ)を妃とします。そして小足媛との間には、後に悲劇の死をとげる有間皇子を儲けます。


六五〇年には元号を「白雉」に改元し、六五三年五月に吉士長丹を、六五四年二月には高向玄理を唐に相次いで派遣するなど、超大国唐との友好関係を深めてもいます。
さらに六五二年には飛鳥から離れ、現在の大阪の地に本格的な朝堂院様式の難波長(なにわなが)柄豊碕宮(らのとよさきのみや)を完成させ、ここで政事(まつりごと)をつかさどります。
このような一連の活動を見ますと、孝徳帝は従来の体制を大きく改革しようとしていたことが分かります。定説として大化改新は中大兄皇子の功として取り上げられていますが、四十九歳の老練な孝徳帝が主体者だと考えたほうが自然でしょう。


なお大化改新の新制度に関しては、「郡・評議論」(「郡」は大宝令以降での用語であり、それ以前は「評」であったことが証明された)によって、書紀編纂時の書き加えであろうというのが定説になってきています。


六五三年の秋、中大兄皇子は、豊碕宮から母 宝皇女と妹 間人皇女を飛鳥に強引に連れ帰ってしまい、政事の本体を飛鳥に戻してしまいます。一人難波に残された孝徳帝は、その一年後の六五四年十月に寂しく死を迎えてしまうのです。
新しい改革を目指した孝徳帝の御世は、わずか十年の短期間で幕を閉じ旧勢力の復活を許してしまいます。
 

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