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にほんブログ村 韓国百済の歴史と白村江の戦、そして福岡県水城堤との関連を紹介します

「百済歴史遺跡地区」を見る

国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産委員会は、7月5日(日本時間10時)から、日本が世界文化遺産に推薦する「明治日本の産業革命遺産」について審議し、登録することを決定しました。韓国との小競り合いが続き、ぎりぎりの登録でした。何はともあれ おめでとうございます。


また前日には、韓国の「百済歴史遺跡地区」を世界文化遺産に登録したのもご存じのとおりです。


さて 百済歴史遺跡地区は、忠清南道公州市の公山城と宋山里古墳群、扶餘郡の官北里遺跡、扶蘇山城、陵山里古墳群、定林寺址、扶餘羅城、それに全羅北道益山市の王宮里遺跡、弥勒寺址の8遺跡からなりたっています。


 私のブログのテーマの一つが百済ですから、この歴史遺産登録は、経過は別として嬉しい話題です。


1.忠清南道公州市(熊津)の歴史遺産


高句麗との戦いで王都漢城を失った百済の文周王は、都を錦江岸の熊津(忠清南道公州市)に遷します。そしてこの熊津時期には、文周王、三斤王、東城王(暗殺)、武寧王(在位四七三~五二三)、聖王(在位五二三~五五四)と五代続きます。特に武寧王および聖王は、我が国出身ではないかと思われるほど、倭国と非常に強い絆がある王です。


 まず熊津の公山城を紹介しましょう。錦江(白馬江と同じ)沿いに築城された平城で、現在も発掘が続いていました。



 次に宋山里古墳群から、まったく未盗掘の状態で発見された武寧王陵に安置されていた、武寧王の墓誌です。

 右側一行目から二行目に掛けてですが、斯麻王という文字が読み取れますでしょうか。斯麻王は日本書紀では嶋王と記録され、佐賀の加唐島で誕生したとの逸話が残っている百済王です。私はこの武寧王嫡男である聖王に注目しており、二人の百済王をテーマとした物語を描きたいと考えていますが、果たしていつ完成するかは不明です。




  さらにこの武寧王陵に安置されていた、王と王妃の棺は、日本国内に産地のある「高野槇」であることも判明しました。ますます、我が国との強い繋がりを感じ取れる王なのです。

 私の写真の撮り方がまずく、棺は、奥の黒い二つの五角形の箱状のものです。



次回は、扶餘を紹介しますね





 

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