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第一話 3-4 大本営はすでに飛鳥に帰っていた

3-4 大本営はすでに飛鳥に帰っていた

 

斉明女帝を筆頭に筑紫にやってきた大和政権。この遷宮開始は六六一年一月のことです。前年の六六〇年夏には百済が降伏していますから、この筑紫入りもちょっと不思議ですが、正確な情報が届いていなかったと考えておきましょう。

少なくとも筑紫入りの頃には、朝鮮半島へ兵を送るという意欲はあったと思われます。

しかし斉明帝は七月に急死し、その葬儀の為に中大兄皇子(後の天智帝)は飛鳥に帰ってしまいます。六六一年十月以降、筑紫の地には大本営は存在しません。一説には、中大兄皇子の弟である大海人皇子(後の天武天皇)が筑紫に留まったのではないかといわれていますが、残念ながらその証拠は存在しません。

倭軍の有能な将が派兵を取り仕切ったと考えても良いのですが、百済救援の最先鋒であった斉明帝が亡くなり、百済降伏の実情が時間の経緯とともに次第に明らかになってきた六六三年ごろには、もう大国唐と戦う意欲は失せ、いかに唐の侵攻を食い止めるかに我が国の戦略は変化していたはずです。

朝鮮半島の詳しい情報が伝わるにつれ、「攻め」から「守り」へと方針転換があったと考えることが自然です。

大国唐を相手にする勝ち目のない戦に多くの兵を送り出す、そんな愚策を敢えて実行するほど、我が国に智恵が無かったとは考えられません。

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