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にほんブログ村 韓国百済の歴史と白村江の戦、そして福岡県水城堤との関連を紹介します

すがけいのブログの人気ブログ記事

  • 第一話 1-2 唐の百済侵略と高句麗攻略

    1-2 唐の百済侵略と高句麗攻略 朝鮮半島に眼を移すと、高句麗と百済そして新羅の三カ国がそれぞれの領土占有を巡って、常に小さな争いと外交課題が存在しながらも、三竦みの微妙な均衡感を保っていた時代でした。 高句麗への北側からの攻撃で失敗を繰り返した唐は、南側からの攻略を考え、その第一歩として目障りな... 続きをみる

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  • 第一話 2『唐書』等が示す百済派兵と白江の戦

    2 『唐書』等が示す百済派兵と白江の戦 2-1 『日本書紀』による百済救援軍の派兵規模 『日本書紀』(以下書紀と略す)では、我が国から百済への派兵規模を次のように記録しています。 ①六六一年八月、前軍後軍の二軍編成による派遣(兵力不明) ②六六一年九月、百済王子豊璋に兵五千余を付けて送る ③六六二... 続きをみる

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  • 第一話 3 定説を否定する理由

    3 定説を否定する理由 3-1 定説の小さなほころび 『唐書』にも記録され、書紀にも描かれている「白江の戦」あるいは「白村江の戦」ですから、定説は正しいと捉えるのは当然だといえます。 しかしこの鉄壁の定説に小さなほころびが存在するのです。それは戦の合理的な動機が見当たらないことです。 危険な対馬海... 続きをみる

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  • 六六三年の白江もしくは白村江での 倭軍の大敗は無かった まとめ最終回

    六六三年の白江もしくは白村江での 倭軍の大敗は無かった   国滅びた百済では抵抗軍が活動し、豊璋が率いる百済救援軍(我が国の兵士が中心)も、これに合流します。 小うるさい抵抗軍殲滅のため、唐は孫仁師率いる兵力を百済に送り込みます。この兵力は、七千人です。 『青萊海之兵七千人』(旧唐書列伝東夷百済国... 続きをみる

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  • 関西旅行の思い出 「えっ 扉が開かない」

    「えっ 扉が開かない」   あれは大学入試を終えたばかりだったから、昭和39年3月。窮屈な受験体制からやっと開放されて一息ついた私は、奈良県今市にある母の実家を訪問することにした。福岡県の小倉駅から夜行列車を利用して大阪駅へ、さらに奈良駅で桜井線に乗り換えて実家に近い帯解(おびとけ)駅に向かった。... 続きをみる

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  • 第三話 2 斉明帝は不思議な老女帝

    2 斉明帝は不思議な老女帝      皇極帝(宝皇女)が孝徳帝に譲位した「生前譲位」も史上初めてなら、斉明帝(宝皇女)として再び即位する「重祚」という即位形式も、史上初めての出来事です。帝位の継承形式において、二つも初めての形式が、この宝皇女時代に出現していることも不思議ですが、同一人物であるはず... 続きをみる

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  • 第二話 水城堤は三段階で築造された 1. 水城堤および九州の山城

    第二話 水城堤は三段階で築造された  白村江の戦(六六三年八月)において唐・新羅軍に大敗し、勢いに乗る唐の侵攻を恐れた我が国は、筑紫の地に筑紫防衛ライン(水城堤・大野城・基肄(きい)城)を構築します。  水城堤が、六六三年の白村江での大敗を契機として築造されたことは、殆ど否定する人のないくらい常識... 続きをみる

  • 第一話 3-7 敗戦国として処遇されていない

    3-7 敗戦国として処遇されていない かりに白江の戦で大敗を帰し、我が国が唐の敗戦国であったとするならば、その処遇において矛盾が生じています。 唐の敗戦国への基本的な処遇は、都護府設置による羈縻支配です。羈縻支配は周辺諸国において既に手馴れた手法であり、我が国に適用することは十分可能であったはずで... 続きをみる

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  • 第一話 3-5 百済亡国の悲報は早々と届けられていた

    3-5 百済亡国の悲報は早々と届けられていた   大国唐と戦う恐さは、今では想像できないほど大きいと思います。よく日米開戦を引き合いに出す方もおいでですが、状況は全く違います。やっと国家の体を成しはじめ、政治制度や法制度、都形態や宗教・医術・文化まで見習うお師匠さまに立ち向かうのは、横綱と小学生の... 続きをみる

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  • 第一話 3-4 大本営はすでに飛鳥に帰っていた

    3-4 大本営はすでに飛鳥に帰っていた   斉明女帝を筆頭に筑紫にやってきた大和政権。この遷宮開始は六六一年一月のことです。前年の六六〇年夏には百済が降伏していますから、この筑紫入りもちょっと不思議ですが、正確な情報が届いていなかったと考えておきましょう。 少なくとも筑紫入りの頃には、朝鮮半島へ兵... 続きをみる

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  • 第一話 3-3 当時の我が国に水軍は存在しなかった

    3-3 当時の我が国に水軍は存在しなかった 我が国で海上での戦といえば、案外数少ないことにお気付きですか。河川を挟んだ戦はありますが、海上となると、織豊時代以前では秀吉の文禄・慶長の役(一五九二~一五九八年)、厳島の戦(一五五五年)、蒙古軍が襲来した文永(一二七四年)弘安の役(一二八一年)、そして... 続きをみる

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  • 第一話 3-2 当時の我が国に万余の出兵は無理である

    3-2 当時の我が国に万余の出兵は無理である 書紀によれば六六三年だけでも、単純足し算で三万七千人の兵力を渡海させたことになっています。さてこの頃の我が国に、これだけの多くの兵を海外に送る体力があったでしょうか。 兵士数に関する記録は少ないのですが、七六一年西海道使 吉備真備の記録として九州八カ国... 続きをみる

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  • 第一話 白村江の大敗は無かった 1-1 中国(隋・唐)と高句麗の確執

    第一話 白村江の大敗は無かった   六六〇年、百済国は唐・新羅連合軍に破れ国家は降伏しますが、百済復興を願う民が抵抗軍を組織します。我が斉明女帝は大和から筑紫に遷宮(朝倉(あさくら)橘廣庭宮(たちばなひろにわのみや))し、百済救援軍の派遣を指揮。しかし朝鮮半島白村江の海戦(六六三年八月)において唐... 続きをみる

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  • 序話1,2 七世紀の中国と朝鮮半島

    序話 七世紀の中国(唐)および 半島三国(高句麗、新羅、百済)を知る  1  巨大な大唐帝国 七世紀に我が国が白村江で戦ったという中国唐国ですが、この時代の唐は、実に巨大な大帝国でした。特に第二代太宗の時代は、「貞観の治」と呼ばれる安定した政治が行われ、版図を大きく広げました。 その版図の拡大にお... 続きをみる

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  • ●筑紫地域の数々の防御陣整備は、百済降伏の六百六十年から始まった  まとめその2

    ●筑紫地域の数々の防御陣整備は、百済降伏の六百六十年から始まった   九州では筑紫一族が大勢力を誇っていた時代(六世紀)があり、すでにその時代に、原太宰府地域(大宰府設置以前の地域)を中心として、柵、城といった防衛陣は構築されていました。 「柵」は木材を立て連ねて一定の地域を画した我が国の防衛施設... 続きをみる

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  • ●孝徳帝の後を継いだ斉明帝は、皇后であった間人皇女である まとめその1

    ●孝徳帝の後を継いだ斉明帝は、皇后であった間人皇女である  六六〇年七月に、百済国が唐と新羅の連合軍によって蹂躙され、首都扶余は焼け野原になってしまいます。 百済の滅亡と遺民の抗戦を知った斉明女帝は、我が国に滞在していた百済王子豊璋(百済義慈王の王子豊)を、百済に送り帰します。 そして、六六一年 ... 続きをみる

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  • 第三話 2-3 女帝には愛情と冷淡の二面性があります

    2-3 女帝には愛情と冷淡の二面性があります   六五八年五月、中大兄皇子の子すなわち斉明帝の孫にあたる建王が、僅か八歳で亡くなってしまいます。この時の斉明帝の嘆きは甚だしく、『私の死後、必ず陵に合葬せよ』とさえ命じています。 そして斉明帝の詠んだ悲しみの歌が、 『今城(いまき)なる 小丘が上に ... 続きをみる

  • 第三話 2-2 老女帝はとても好戦的です

    2-2 老女帝はとても好戦的です   また老女帝とは思えない精力的な行動で、北は蝦夷と戦い、そして南は海を越え朝鮮半島百済国への出兵を目指します。   (一)蝦夷の征討 書紀の斉明帝四年(六五八年)条から六年(六六〇年)条にかけて、阿倍引田比羅夫による蝦夷征討記が以下のように記載されています。 『... 続きをみる

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  • 4 「水城堤築造二段階説」登場

    4 「水城堤築造二段階説」登場  実は二〇一一年春に「水城堤築造二段階説」が、九州歴史資料館によって発表されました。 発掘調査の結果、土塁の基底部(幅八十メートル高さ二メートル)と、その上の土堤本体(幅二十メートル高さ七メートル)とは、土を突き固める工法および土質が異なる、と確認できたのです。 そ... 続きをみる

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  • 2. 水城堤築造時期の記録

    2. 築造時期の記録 築造時期に関しては、『日本書紀』(以下書紀と略す)にしか記述されていません。これらの大規模構造物に関する書紀の記録を、まず紹介しましょう。   2-1 水城堤・大野城・基肄城の築造時期 天智三年(六六四年)是歳(このとし)条には 『筑紫に大堤を築き水を貯えた。名を水城という』... 続きをみる

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  • 第一話 4 白村江の大敗は無かった

    4 白村江の大敗は無かった   以上のような認識から、私論としての結論は以下のとおりです。   親百済派 斉明女帝の崩御(六六一年七月)を契機に、国破れた百済王族の悲哀を知る穏健派により、勝ち目の無い百済派兵は中断された。 その結果、白江の戦(六六三年八月)は、唐将劉仁軌軍と百済王子豊璋軍(倭人を... 続きをみる

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  • 第一話 3-6 唐からの援軍は七千人だった

    3-6 唐からの援軍は七千人だった   ところで、『旧唐書劉仁軌伝』では六六三年の戦をどう伝えているでしょうか。私の読み下しを示します。 『(百済)扶餘豊は福信(抵抗軍の主力将軍である鬼室福信)を殺害した。また高句麗と倭国に兵を送るよう使いを出した。(百済復興軍の勢いが増し、劉仁軌は本国唐へ救援軍... 続きをみる

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  • 序話 3-2  百済都城の変遷

    3-2 百済都城の変遷 百済の都城変遷の歴史は、むしろ悲劇の歴史です。 (一)漢城時期 四世紀の百済の都は、漢江下流南岸にあり、漢城と呼ばれていました。 漢城時代の百済は、南側に拡大を続ける高句麗との死闘を繰り返していましたが、四七五年には首都漢城を落とされ蓋鹵王が戦死してしまいます。 (二)熊津... 続きをみる

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  • 序話 3-1 高句麗都城の変遷

    3 都城の変遷と我が国への影響 3-1 高句麗都城の変遷 高句麗の築城技術は、九州の山城や大宰府羅城に大きな影響を与えていると考えます。 (一)卒本城時期 高句麗を建国した朱蒙(チュモン)が定めた首都卒本(ソルボン)の地は、現在の遼寧省本渓市であり、都城の卒本城は五女山山城に比定されています。 (... 続きをみる

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