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にほんブログ村 韓国百済の歴史と白村江の戦、そして福岡県水城堤との関連を紹介します

「百済歴史遺跡地区」を見る  その2

 扶餘郡では官北里遺跡、扶蘇山城、陵山里古墳群、定林寺址、扶餘羅城が対象となりました。


 さて この 扶餘ですが、五三八年に聖王が、都を公州熊津から錦江下流の泗沘(忠清南道扶餘郡)へ南遷した街でもあり、百済最後の首都でもあります。(なお新羅による半島統一後、泗沘は扶餘郡と改称され、現在では扶餘と呼んでいます)


この扶餘の扶蘇山城を中心とする羅城構築が、大宰府、大野城、基肄(きい)城等の大宰府羅城のモデルであるとするのが定説です。


  扶餘の街はこじんまりとまとまった、古都のにおいの残る街です。


 さらにこの街は、白馬江という大河と版築工法で積み上げた土塁で守られていました。この土塁の構築を羅城と呼んでいます。


 さて街中にある定林寺ですが、六六〇年の唐軍の蹂躙により、殆どが焼き尽くされた街に、残った石塔の存在する寺です。


 

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