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●孝徳帝の後を継いだ斉明帝は、皇后であった間人皇女である まとめその1

●孝徳帝の後を継いだ斉明帝は、皇后であった間人皇女である 


六六〇年七月に、百済国が唐と新羅の連合軍によって蹂躙され、首都扶余は焼け野原になってしまいます。


百済の滅亡と遺民の抗戦を知った斉明女帝は、我が国に滞在していた百済王子豊璋(百済義慈王の王子豊)を、百済に送り帰します。


そして、六六一年 斉明帝は、同盟国百済救援に向けて、勇ましくも征西の途につきます。この行動は六十八歳になる老女帝の行動ではなく、もっと若い間人皇女(宝皇女の娘、天智帝の姉)すなわち真の斉明帝の行動です。(第三話 参照) 


ちなみに豊璋は、舒明帝時代の六三一年に来倭しています。そして百済救援軍の一員として六六一年に百済に帰国しますが、白江の戦直前の六六三年六月には、抵抗軍の主力将軍である鬼室福信を殺害しています。暗愚な王族だったと捉えても間違いないでしょう。 


斉明帝は六六一年の正月に畿内を離れ、三月に筑紫の那大津(福岡県福岡市)に到着します。ところが斉明帝は、六六一年七月、朝倉橘広庭宮においてあっけなく急死してしまいます。これは、百済派兵に反対するグループによる暗殺でしょう。


派兵推進派の筆頭であった若き斉明女帝の崩御により、百済への軍事介入意欲は急速に衰え、一方で唐の侵攻に備える防御施設の整備が進み始めます。


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