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にほんブログ村 韓国百済の歴史と白村江の戦、そして福岡県水城堤との関連を紹介します

第一話 3-3 当時の我が国に水軍は存在しなかった

3-3 当時の我が国に水軍は存在しなかった

我が国で海上での戦といえば、案外数少ないことにお気付きですか。河川を挟んだ戦はありますが、海上となると、織豊時代以前では秀吉の文禄・慶長の役(一五九二~一五九八年)、厳島の戦(一五五五年)、蒙古軍が襲来した文永(一二七四年)弘安の役(一二八一年)、そして源平が合い争った壇ノ浦の戦(一一八五年)くらいしかないのです。

海に囲まれた我が国では海上輸送は発達したのですが、船と船が戦う水軍同士の戦は地形上、その機会が少なかったのです

文禄の役では十五万七千人の兵が朝鮮半島に渡海していますが、このうち水軍は九鬼・脇坂軍九千人のみで、残りは陸軍の兵を船で輸送したに過ぎません。

また元寇や壇ノ浦では、絵図に描かれているように、少人数の兵が乗船する平舟での戦が中心です。壇ノ浦から五百年遡った七世紀に、我が国が唐水軍と激突するような本格的水軍を擁していたとはとても考えられません。

なお『唐書劉仁軌伝』に記録された四百艘の舟ですが、これは百済の民が有していた平舟でしょう。百済国は六六〇年夏に崩壊し、重要な資財は唐に持ち出されていますから、軍船も殆ど残っていなかったでしょう。ですから仮に四百艘という数値が正しいとしても(『劉仁軌伝』という一将軍を賞美する記録の性格上、四百艘は過大値と考えますが)百済豊璋軍は総勢二千人程度(一艘五人として)の規模だったと推測出来ます。


 書紀では『大唐の軍将、戦船百七十艘を率て』とあります。二つの記録から、「唐百七十艘」(書紀)と「倭軍四百艘」(唐書)の海上戦であったとする考え方が定説ですが、異なる資料の数値を重ねることは危険な解釈だと考えます。数値にはそれぞれの作成者の思惑が含まれているからです。

 

 

壇ノ浦(上段)と元寇(下段)の絵図

壇ノ浦絵図では、大舟(8人)中舟(6人)小舟(3人)の兵士が見えます。

元寇絵図では、蒙古船に乗り込む兵5名が見えます。我が国の軍船は十人未満の小船が中心でした。

 

文永の役(一二七四年)では蒙古・高麗連合軍二万六千人が九百艘で、弘安の役(一二八一年)では江南軍十万人が三千五百艘との記録が残っていますから、当時の中国船でも、平均すれば一艘当り兵士三十人程度の乗船能力であったようです。



 

第一話 3-2 当時の我が国に万余の出兵は無理である

3-2 当時の我が国に万余の出兵は無理である

書紀によれば六六三年だけでも、単純足し算で三万七千人の兵力を渡海させたことになっています。さてこの頃の我が国に、これだけの多くの兵を海外に送る体力があったでしょうか。

兵士数に関する記録は少ないのですが、七六一年西海道使 吉備真備の記録として九州八カ国の兵士数一万二千五百人があります。この記録から、全国の兵数は約十万人と推定できます。(九州は人口ベースで八分の一)これに民兵を加味しても八世紀の兵力は二十万人程度です。そこから丁度百年遡った六六〇年代(この頃は、宮城県・山形県以北いわゆる陸奥(みちのく)は、未だ大和政権に組み込まれていなかった)の兵力は、多めに見ても十五万人程度でしょう。

その兵力から三万人を捻り出す、そんな強い国家体制が既に出来がっていたでしょうか。もちろん兵士数のみでなく、輸送船舶、弓矢を含む装備、そして兵糧等の準備を考えれば国家一大プロジェクトなるのですが、そこまで投資する価値が、既に国滅びた百済に存在していたとはとても考えられません。



● 七世紀半ばの倭国の勢力圏

磐舟柵(648年)や淳足柵(647年)で分かるように、倭国は660年代には、新潟・福島辺りまでを支配圏としています










第一話 3 定説を否定する理由

3 定説を否定する理由

3-1 定説の小さなほころび

『唐書』にも記録され、書紀にも描かれている「白江の戦」あるいは「白村江の戦」ですから、定説は正しいと捉えるのは当然だといえます。

しかしこの鉄壁の定説に小さなほころびが存在するのです。それは戦の合理的な動機が見当たらないことです。

危険な対馬海峡を渡って、わざわざ朝鮮半島に多くの兵力を送り、しかも大国唐と戦うからには、それ相当の動機が存在するはずですが、それがどうも曖昧なのです。

 

一般的に、動機として説明される内容は以下の通りです。

①百済は、我が国に朝貢している友好国だから救援は当然である

②友好国百済が滅亡すれば、朝鮮半島に我が国の拠点がなくなり、唐や新羅に侵攻される恐れがある

③我が国は「新羅を討ち、百済を救う」と考えており、唐との戦は眼中になかった

④大和政権への権力集中のために、海外派兵を利用した

 

いずれもそれらしいのですが、これらの説は殆ど、百済が国家として存続していることが前堤となっているようです。

しかしながら、百済は六六〇年七月に既に滅び、百済最後の王義慈王も同年病で亡くなってしまっています。すなわち、百済は六六〇年夏に唐に降伏し、その後百済は唐の軍事管理体制に組み込まれているのです。この軍事管理体制が羈縻(きび)統治です。

たしかに、六六〇年夏以降も百済の復興を願う民が反乱を起こしていますが、もう国家としての秩序は崩壊していますから、外交交渉の窓口すら存在せず、幾ら支援を尽くしたからといって、百済から得られるものは期待できないという現実があるのです。

また唐と我が国は朝貢関係にあり、何度も遣唐使を送ってひたすら友好を維持するよう努めており、大国唐と戦火を開くことは、むしろ唐側に我が国侵攻の決定的な動機を与えてしまうことにもなりかねないのです。

動機として取り上げた①②は、以上の実情からみて合理性が薄弱となります。なお、動機③「出会い頭」説と、④「国内の意思統一」説については、論評は差し控えます。

 

これまでの定説を批判するのはここまでにして、逆に何故「白村江での大敗は無かった」(万余もの出兵は無かった)と考えるのか、私論を展開していきましょう。