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旅紀行;扶餘の街と太宰府の街、そして防御構想

 扶餘の街と太宰府の街、そして防御構想

百済の古都 扶餘の街を散策して歴史の息吹が数々残っている穏やかな街として、古都太宰府との共通点を肌身に感じ取ることが出来ました。そういう意味で扶餘郡と太宰府市が姉妹都市として交流を積極的に継続することには大いに賛同できます。

但し、扶蘇山城・白馬江に守られた扶餘と、水城堤・大野城・基肄城に守られた城砦太宰府とでは、防御構想と規模において、やはり大きな違いがあると再認識も出来ました。

 

①扶餘は大河白馬江を利用した防御都市です。

扶蘇山城は、白馬江に隣接する海抜約百メートルの丘の山上に、周長約二キロ弱の防壁を築いた川城です。しかも扶蘇山城を含む扶餘の宮都は、半円形上に蛇行する大河白馬江に取り囲まれ、北、西、南からの敵の侵略を防いでいます。

 

扶餘陥落がわずか一ヵ月ほどの短期間であったのも、この堅固な要害に安心しきっていた一面もあるようです。

我が国で扶蘇山城のイメージに一番近い城は、木曾川を利用した犬山城(愛知県犬山市)です。犬山城は高さ約九十メートルの丘の上に織田氏によって築造された川城です。

どちらも大河を防御の生命線と考えており、そのため山城の高さはそれほど高くはなかったのです。






②太宰府は大規模な山城で守られた防御都市です。

一方 大野城は高さ四百十メートル、山上の周長は八キロに及びます。こちらも宝満川は存在していますが、この川自体は防御線となるほどの大河ではありません。

水城堤・基肄城も含めて考えれば、航空地図が必要なくらい大規模な構想と膨大な労働力が必要な巨大構造物で、こぢんまりとした扶蘇山城の比ではありません。

大規模構築物に携わった技術者が小規模構築物は可能ですが、その逆のケースは、非常にハードルが高いことは土木技術者として断言できます。

ですから「(百済)達率憶礼福留と達率四比福夫を筑紫国に遣わして、大野と椽の二城を築かせた」という書紀の記述は、築造工程における版築工法の指導・管理を行なわせた程度の意味で、基本構想や位置選定を含む防御構想の立案は、技術的にも時間的にも、彼等百済人にはとても無理だったと考えます。

 

防御陣構築の意図として、一方は大河を利用し、一方は高句麗の山城築造に類似した強大な城砦構築ですから、この二つの防御陣が同じ構想で構築されたとする従来の定説は、現地訪問した実感として、やはり無理があると感じています。

 


 

 

 

□中国(隋および唐)

●隋(五八一年‐六一九年)

北周の権臣 楊堅(文帝)が建国。都は大興(長安)。五八九年陳を滅ぼし南北に分かれていた中国を統一し、中央集権国家を築いた。二代煬帝(ようだい)は大運河を開き大規模な外征を行ったが、高句麗遠征の失敗から各地に反乱が起こり、六一九年唐の李淵(りえん)に滅ぼされた。

●唐(六一九年‐九〇七年)

李淵(唐の初代皇帝高祖)が隋を滅ぼして建国した。第二代皇帝太宗時代に版図を広げ、最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国となった。我が国にも政制・文化などの面で多大な影響を与えた。

太宗の治世を「貞観の治」と称し、『旧唐書』では『家々は泥棒がいなくなったため戸締りをしなくなり、旅人は旅行先で食料を支給してもらえるため携帯しなくなった』と書かれている。

六九〇年に唐王朝は廃されて、中国初の女帝である武則天の即位により武周王朝が建てられたが、七〇五年に武則天が失脚し唐は復活している。

 

□朝鮮四国(高句麗、新羅、百済、加羅諸国)

●高句麗(紀元前三七年六六八年)

中国東北部南部から朝鮮北中部にあった国家であり、最盛期は満洲南部から朝鮮半島の大部分を領土とした。隋、唐による侵攻を、遼河、鴨緑江および遼東半島に配置した百七十もの城砦によって度々撃退したが、最終的には唐・新羅の連合軍により宝蔵王は投降し、六六八年に高句麗は滅亡した。

 

新羅(三五六年‐九三五年)

朝鮮半島南東部にあり、新羅という国号は、五〇三年に正式の国号となった。六世紀には法興王らが国制の整備によって国力を高め、真興王による急激な領域拡大が可能となった。高句麗を攻撃し漢江下流部に領土を広げ、また五六二年には洛東江流域の大加羅国を滅ぼしている。

中国に対しては北周に朝貢して冊封を受け、その一方で南朝の陳にも朝貢している。さらに隋、唐に対しても、使者を派遣して冊封を受けた。

善徳女王、真徳女王と二代続いた女王時代に、百済からの圧力が強まり、唐に救援を求める。唐の救援を受けた新羅は百済へ進軍、六六〇年に百済を滅ぼし、さらに六六八年に唐が高句麗を滅亡させた戦いにも従軍した。

その後、唐が西方で吐蕃と戦争している間に領域を広げ、旧百済領と旧高句麗領の南半分(鴨緑江以南)を併せて、六七八年朝鮮半島統一に成功した。これ以後を統一新羅時代と呼んでいる。

 

百済(三四六年 六六〇年)

朝鮮半島南西部にあった扶餘氏による国家である。

百済という国号が明らかになるのは、四世紀の近肖古王からである。その頃の百済の都は漢江南岸にあり漢城と呼ばれた。高句麗の攻勢に会い、漢城から熊津そして扶餘と、都を南遷した。扶餘に遷宮した聖王は、我が国との同盟を強固にすべく諸博士や仏像・経典などを倭国に送り、先進文物の伝来に貢献したが、五五四年に新羅との管山城の戦いで戦死する。これ以降は百済と高句麗の対立から、百済と新羅の対立へと変化する。

六六〇年、唐の蘇定方が山東半島から海を渡って朝鮮半島に上陸し、海と陸から百済を攻め百済王都を占領した。百済最後の王となる義慈王は熊津に逃れたが間もなく降伏し、百済国はおよそ一ヵ月あまりの戦闘で滅亡した。

 

●加羅諸国

三世紀から六世紀中頃にかけて洛東江流域に散在していた、大加羅国を中心にした小国家群。新羅と百済の争奪戦に巻き込まれ、五三二年には金官国が新羅に降伏、五六二年には大加羅国が新羅に滅ぼされ、残る加羅諸国は新羅に併合された。

序話 3-2  百済都城の変遷

3-2 百済都城の変遷


百済の都城変遷の歴史は、むしろ悲劇の歴史です。

(一)漢城時期

四世紀の百済の都は、漢江下流南岸にあり、漢城と呼ばれていました。

漢城時代の百済は、南側に拡大を続ける高句麗との死闘を繰り返していましたが、四七五年には首都漢城を落とされ蓋鹵王が戦死してしまいます。


(二)熊津時期

王都漢城を失った当時、新羅に滞在していて難を逃れた文周王は、都を錦江岸の熊津(忠清南道公州市)に遷します。

熊津時期には、文周王、三斤王、東城王(暗殺)、武寧王(在位四七三~五二三)、聖王(在位五二三~五五四)と五代続きます。特に武寧王および聖王は、我が国とは非常に強い絆がある王です。

(三)泗沘(扶餘)時期

 六世紀には新羅が大きく国力を伸張させ、漢江流域も新羅の支配下に入ります。新羅の圧力を受け、聖王は五三八年、都を熊津から錦江下流の泗沘(忠清南道扶餘郡)へ南遷するのです。(なお新羅による半島統一後、泗沘は扶餘郡と改称され、現在では扶餘と呼んでいます)

この扶餘の扶蘇山城を中心とする羅城構築が、大宰府、大野城、基肄(きい)等の大宰府羅城のモデルであるとするのが定説です。しかし、扶蘇山城は海抜百八メートル、山城規模二・四キロ(百済時代の初期規模は一・五キロ)です。大野城の高さ四百十メートル、山城規模八キロと比べると、規模的に随分と見劣りがします。

高句麗の丸都山城(規模七キロ)、大城山城(規模九キロ)といった築城技術や、山城と平城の一体的配置、さらに河川制御の技術を考えれば、水城堤も含む大宰府羅城の築造初期段階には、高句麗系技術者の関与があったと考えるほうが合理的だと私は考えています。


大城山城(上)と扶蘇山城(下)の規模比較

高句麗の平壤遺跡と百済の扶餘遺跡を比べると、高句麗遺跡の巨大さが分かります(縮尺を、参照ください)


●扶餘の防御陣(下)
扶餘の街は白馬江によって三方向を守られ、防備の薄い東側は版築工法で固めた土塁を築いていました。これを羅城と呼んでいます




 




序話 3-1 高句麗都城の変遷

3 都城の変遷と我が国への影響

3-1 高句麗都城の変遷

高句麗の築城技術は、九州の山城や大宰府羅城に大きな影響を与えていると考えます。

(一)卒本城時期

高句麗を建国した朱蒙(チュモン)が定めた首都卒本(ソルボン)の地は、現在の遼寧省本渓市であり、都城の卒本城は五女山山城に比定されています。

(二)丸都城時期

二世紀末から三世紀初めにかけて、卒本から鴨緑江岸の丸都城(吉林省集安市近郊)へ遷都し、平地の国内城に王宮を構えます。この国内城から少し離れた上流に、我が国でも有名な広開土王(在位三九一年~四一二年))の碑が存在します。

さらに五世紀には、遼河以西まで勢力圏を拡大すると同時に領域を南にも拡げ、大同江岸の平壌に遷都しました。



(三)平壌城時期

遷都直後は大城山城と安鶴宮(丸都城と国内城の配置と同じく、山城と平城のセットです)を拠点とし、清岩里土城を経て、本格的な城塞である平壌城へ居城を移します。

こうした山城と平城との組み合わせは、我が国の大野城と大宰府の配置に極めて近似しています。


また平壌城を挟む大同江の水勢を利用して、押し寄せた中国軍を撃退していますから、築堤や導堤等、河川を制御する高度な土木技術を高句麗は有していたようです。