すがけいのブログ

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にほんブログ村 韓国百済の歴史と白村江の戦、そして福岡県水城堤との関連を紹介します

六六三年の白江もしくは白村江での 倭軍の大敗は無かった まとめ最終回

六六三年の白江もしくは白村江での 倭軍の大敗は無かった
 
国滅びた百済では抵抗軍が活動し、豊璋が率いる百済救援軍(我が国の兵士が中心)も、これに合流します。
小うるさい抵抗軍殲滅のため、唐は孫仁師率いる兵力を百済に送り込みます。この兵力は、七千人です。
『青萊海之兵七千人』(旧唐書列伝東夷百済国)『發齊兵七千往』(唐書列伝百済)、『詔發靑海之兵七千人』(三国史記百済本紀)
 
孫仁師は新羅文武王とともに、渡海した主力軍を率い、抵抗軍の拠点である周留城を目指します。
一方、百済に在陣していた劉仁軌は、百済王子隆(洛陽に連行された百済王子の一人)とともに、水軍および糧船を率い白江沿いの周留城を目指します。
 
その時、仁軌軍は、百済王子豊璋が率いる兵力に、白江の河口で出会います。
 
『この一軍が白江付近で、百済王子豊が率いる一軍と出会う。戦は四戦とも唐が勝利し、豊軍は舟四百艘を失い、破れた豊は逃げ去った』(『旧唐書劉仁軌伝』より)



 
ここから読み取れることは、六六三年の「白江の戦」は、唐軍の分派である水軍(糧船を含む)と、豊璋軍(倭人を含む)との局地戦であったということです。
 
白江の戦(六六三年八月)を過大に評価し、我が倭国軍の万余もの大勢力が打ち破られたとの認識が定説です。
しかし、この戦いは 唐将劉仁軌軍と百済王子豊璋軍(倭人を含む)との小競り合いに過ぎない、すなわち白江もしくは白村江での倭軍の大敗は無かった、と私は自信を持って言い切ることが出来ます。(第一話 参照)
 
長期間に渡って ご清聴ありがとうございました。   須嘉 恵

●筑紫地域の数々の防御陣整備は、百済降伏の六百六十年から始まった  まとめその2

●筑紫地域の数々の防御陣整備は、百済降伏の六百六十年から始まった
 
九州では筑紫一族が大勢力を誇っていた時代(六世紀)があり、すでにその時代に、原太宰府地域(大宰府設置以前の地域)を中心として、柵、城といった防衛陣は構築されていました。
「柵」は木材を立て連ねて一定の地域を画した我が国の防衛施設を意味し、『唐書日本伝』では、『国に城郭なく木を連ねて柵をなす』とあります。ですから「水城」の前身の構造物は「水柵」でしょう。
 
百済降伏(六六〇年)の報を受け、若き斉明女帝は筑紫遷宮を命じます。遷宮地は「水柵」に守られた原太宰府地域と定められ、斉明帝行宮の防衛強化のため、水柵、大野城、基肄城の改修工事が、高句麗系技術者の手を借りて六六〇年秋から開始されます。
 
筑紫遷宮プロジェクトと筑紫防衛強化プロジェクトは、別々のプロジェクトではなく、友好国百済国の降伏情報を契機とした、同時期の総合プロジェクトでしょう。
 
水城堤の改修工事は三年半の歳月を掛け、六六四年春に完成。
 
六六四年五月に来訪した唐使郭務宋は、完成された水城堤の西門(大宰府官道)を通り、筑紫大宰府を訪問し、その防御の完璧性を本国に伝えます。
この報告により、唐は我が国に対する武力的な侵攻は諦め、友好の使節である劉德高の来訪(六六五年九月)と続きます。(第二話 参照)
 
さて、六六一年五月に、第四回遣唐使は二年弱の唐滞在(六五九年八月~六六一年五月)を終え帰国しています。六六一年三月に斉明女帝は筑紫入りしていますから、筑紫の地で遣唐使節から詳細な情報が報告されています。
遣唐使節は
①百済国が降伏したこと
②百済王族・臣下五十人が、唐の洛陽に連行されてきたこと
③百済の地には都督府が設置され、百済は既に唐の属領となっていること
を伝えています。






 
大国である唐と戦う恐さを知った大和政権は、派兵推進の「攻め」から、国を守る「守り」へと舵を切り、派兵推進派筆頭の斉明女帝を暗殺し、友好派の中大兄皇子に権限を委ねます。

●孝徳帝の後を継いだ斉明帝は、皇后であった間人皇女である まとめその1

●孝徳帝の後を継いだ斉明帝は、皇后であった間人皇女である 


六六〇年七月に、百済国が唐と新羅の連合軍によって蹂躙され、首都扶余は焼け野原になってしまいます。


百済の滅亡と遺民の抗戦を知った斉明女帝は、我が国に滞在していた百済王子豊璋(百済義慈王の王子豊)を、百済に送り帰します。


そして、六六一年 斉明帝は、同盟国百済救援に向けて、勇ましくも征西の途につきます。この行動は六十八歳になる老女帝の行動ではなく、もっと若い間人皇女(宝皇女の娘、天智帝の姉)すなわち真の斉明帝の行動です。(第三話 参照) 


ちなみに豊璋は、舒明帝時代の六三一年に来倭しています。そして百済救援軍の一員として六六一年に百済に帰国しますが、白江の戦直前の六六三年六月には、抵抗軍の主力将軍である鬼室福信を殺害しています。暗愚な王族だったと捉えても間違いないでしょう。 


斉明帝は六六一年の正月に畿内を離れ、三月に筑紫の那大津(福岡県福岡市)に到着します。ところが斉明帝は、六六一年七月、朝倉橘広庭宮においてあっけなく急死してしまいます。これは、百済派兵に反対するグループによる暗殺でしょう。


派兵推進派の筆頭であった若き斉明女帝の崩御により、百済への軍事介入意欲は急速に衰え、一方で唐の侵攻に備える防御施設の整備が進み始めます。