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にほんブログ村 韓国百済の歴史と白村江の戦、そして福岡県水城堤との関連を紹介します

第一話 3-2 当時の我が国に万余の出兵は無理である

3-2 当時の我が国に万余の出兵は無理である

書紀によれば六六三年だけでも、単純足し算で三万七千人の兵力を渡海させたことになっています。さてこの頃の我が国に、これだけの多くの兵を海外に送る体力があったでしょうか。

兵士数に関する記録は少ないのですが、七六一年西海道使 吉備真備の記録として九州八カ国の兵士数一万二千五百人があります。この記録から、全国の兵数は約十万人と推定できます。(九州は人口ベースで八分の一)これに民兵を加味しても八世紀の兵力は二十万人程度です。そこから丁度百年遡った六六〇年代(この頃は、宮城県・山形県以北いわゆる陸奥(みちのく)は、未だ大和政権に組み込まれていなかった)の兵力は、多めに見ても十五万人程度でしょう。

その兵力から三万人を捻り出す、そんな強い国家体制が既に出来がっていたでしょうか。もちろん兵士数のみでなく、輸送船舶、弓矢を含む装備、そして兵糧等の準備を考えれば国家一大プロジェクトなるのですが、そこまで投資する価値が、既に国滅びた百済に存在していたとはとても考えられません。



● 七世紀半ばの倭国の勢力圏

磐舟柵(648年)や淳足柵(647年)で分かるように、倭国は660年代には、新潟・福島辺りまでを支配圏としています










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