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にほんブログ村 韓国百済の歴史と白村江の戦、そして福岡県水城堤との関連を紹介します

第一話 3 定説を否定する理由

3 定説を否定する理由

3-1 定説の小さなほころび

『唐書』にも記録され、書紀にも描かれている「白江の戦」あるいは「白村江の戦」ですから、定説は正しいと捉えるのは当然だといえます。

しかしこの鉄壁の定説に小さなほころびが存在するのです。それは戦の合理的な動機が見当たらないことです。

危険な対馬海峡を渡って、わざわざ朝鮮半島に多くの兵力を送り、しかも大国唐と戦うからには、それ相当の動機が存在するはずですが、それがどうも曖昧なのです。

 

一般的に、動機として説明される内容は以下の通りです。

①百済は、我が国に朝貢している友好国だから救援は当然である

②友好国百済が滅亡すれば、朝鮮半島に我が国の拠点がなくなり、唐や新羅に侵攻される恐れがある

③我が国は「新羅を討ち、百済を救う」と考えており、唐との戦は眼中になかった

④大和政権への権力集中のために、海外派兵を利用した

 

いずれもそれらしいのですが、これらの説は殆ど、百済が国家として存続していることが前堤となっているようです。

しかしながら、百済は六六〇年七月に既に滅び、百済最後の王義慈王も同年病で亡くなってしまっています。すなわち、百済は六六〇年夏に唐に降伏し、その後百済は唐の軍事管理体制に組み込まれているのです。この軍事管理体制が羈縻(きび)統治です。

たしかに、六六〇年夏以降も百済の復興を願う民が反乱を起こしていますが、もう国家としての秩序は崩壊していますから、外交交渉の窓口すら存在せず、幾ら支援を尽くしたからといって、百済から得られるものは期待できないという現実があるのです。

また唐と我が国は朝貢関係にあり、何度も遣唐使を送ってひたすら友好を維持するよう努めており、大国唐と戦火を開くことは、むしろ唐側に我が国侵攻の決定的な動機を与えてしまうことにもなりかねないのです。

動機として取り上げた①②は、以上の実情からみて合理性が薄弱となります。なお、動機③「出会い頭」説と、④「国内の意思統一」説については、論評は差し控えます。

 

これまでの定説を批判するのはここまでにして、逆に何故「白村江での大敗は無かった」(万余もの出兵は無かった)と考えるのか、私論を展開していきましょう。

 

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