すがけいのブログ

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にほんブログ村 韓国百済の歴史と白村江の戦、そして福岡県水城堤との関連を紹介します

序話1,2 七世紀の中国と朝鮮半島

序話 七世紀の中国(唐)および

半島三国(高句麗、新羅、百済)を知る 


1  巨大な大唐帝国

七世紀に我が国が白村江で戦ったという中国唐国ですが、この時代の唐は、実に巨大な大帝国でした。特に第二代太宗の時代は、「貞観の治」と呼ばれる安定した政治が行われ、版図を大きく広げました。

その版図の拡大において他民族や外周の国々と、羈縻(きび)統治および冊封(さくほう)の関係を結んでいます。

羈縻の羈は馬の手綱、縻は牛の鼻綱のことをさします。つまり異民族は唐の手綱の範囲内での自由を認められますが、それを越えようとすると唐の管理下にある都護府によって強く引き押える仕組みなのです。

都護府は、安西、安北、単于、安東(平壤)、安南(ハノイ)、北庭の六都護府が設置され、都護府の下に複数の都督府を置いています。これらの都護府は、六四〇年安西都護府に始まり、七〇二年北庭都護府の設置によって完成するのです。

もちろん、百済を降伏に追い込んだ六六〇年には、熊津鎮将を配置するとともに、熊津都督府の管理下に五府(熊津府、馬韓府、東明府、徳安府、金連府)を設置し、百済を羈縻州としています。

 

次に冊封は、中国皇帝が称号、任命書、印章などの授受を媒介として、近隣の諸国、諸民族の長と取り結ぶ君臣関係です。

太宗の皇帝陵である昭陵に立つ巨大な「十四国蕃君長石像」から分かるように、西突厥(カスピ海までを支配)、東突厥(中央ユーラシア)、吐蕃(チベット)の諸国に続き、十二番目に新羅楽浪郡王金真徳、そして林邑(ベトナム中部のチャンパ王国)、婆羅門(北インド)の十四国が、太宗時代に冊封国であったことを明確に示しています。

我が国は、貢物のみを不定期に朝貢する国として、扶南国(カンボジアとベトナム南部)と同じ扱いだったようです。




 三竦みの半島三国(高句麗、新羅、百済)

七世紀の朝鮮半島の三国はそれぞれ悩みを抱えながら、相互に牽制し合いまた小競り合いを繰り返していました。

高句麗は遼河流域に構築した北側国境線への中国の侵略を常時警戒していましたから、国境南側に位置する百済や新羅に対し、積極的攻勢をかけることは出来ない状態でした。ただ高句麗は、中国を含む多くの北方民族との戦闘によって蓄積した軍事力と築城技術は強力であり、隋や唐からの侵攻を数度も跳ね返すほどの戦闘能力を有していました。

新羅は北側を高句麗と国境を接し、西側には百済が対峙していました。そのため中国と冊封を維持し、中国からの間接的な牽制によって国境を守っている状態でした。

そして百済は、高句麗と新羅からの侵攻を警戒しながらも、新羅初めての女帝 善徳王時代の内乱により、国力のやや乱れていた新羅への侵攻圧力を高めていました。

過去を振り返れば、高句麗対百済、百済対新羅あるいは高句麗対百済・新羅連合軍(羅済同盟)といった戦闘を繰り返しながら、それぞれの領土を削りあっていたのです。

ちょうど我が国の戦国時代をイメージして頂ければ、三国の緊張状態が理解しやすいと思います。

また我が国との関係では、倭国と平和的な交流を行うということでは三国とも一致していました。大帝国中国の圧力を常に感じ、半島内では三竦みの緊張状態ですから、海を隔てた我が国とは揉め事を起こしたくないというのが本音でしょう。

五六二年に滅亡した加羅諸国の民も含め、半島から我が国に移住する民も多く、大和朝廷内にも加羅系、百済系、新羅系、高句麗系といった人々が混在しており、朝廷内も一枚岩ではなかったと考えて良いでしょう。ただし、我が国はこれまでの軍事と文化の交流経緯もあり、百済との友好関係が最も強かったのも事実です。

こんな緊張状態の中で百済から圧力を受けた新羅は、服属している唐へSOSを送ります。一方唐は、鴨緑江以北に広大な地を有す高句麗攻略を国家戦略にしていましたから、新羅からの救援依頼は渡りに船の情報でした。(鴨緑江以北の地で産する豊富な鉄鉱石や岩塩が、隋や唐の狙いであったと私は考えています)

すなわち、高句麗の国境南側を抑えさえすれば、約百七十もの堅固な城砦に守られていた高句麗を、南北から挟み撃ちするという戦略が実現するのです。 

唐の思惑通り、六六〇年には百済を滅ぼして後顧の憂いを絶ち、六六八年に堅固な防御陣を築いていた高句麗を遂に滅亡させます。

こんな激変する東アジアの潮流の中で、我が国は百済救援に向けて大規模な派兵を実行したことになるのです。





はじめに 百済をめぐる三つの講話です

はじめに
 七世紀に活躍した二人の筑紫人、すなわち伊吉(いき)博徳(はかとこ)と大伴(おおとも)部博(べはく)麻(ま)を主人公にした小説『二人の筑紫人と白村江の戦』の出版以来、幸いなことに講話を依頼される機会が増えました。
主題とした「白村江の戦」(六六三年)、あるいは表紙の『筑前国大宰府水城切堀図』が示す「水城堤築造」(六六四年)から、ちょうど千三百五十年目の節目の年代であったことも、強い関心を呼んだのでしょう。 

このページでは、それらの講話で取り上げたテーマの中で、皆さんから興味を示して頂いた、次の三つの講話内容を紹介しましょう。 
     第一話 白村江の大敗はなかった 

  第二話 水城堤は三段階で築造された 

  第三話 斉明帝はいったい誰だ 

 いずれのテーマも、従来の定説とは異なった新しい視点からの推論ですが、それなりの根拠は示しているつもりです。 『日本書紀』の解釈において「そんな考え方もあるのだ」と夢を広げるもよし、「そんな理不尽な」と一笑に付すも結構だと思います。 ただ古代史は一方的な視点からだけではなく、多面的な視点から捉えておかないと、本当の姿は見え難いものです。

 『日本書紀』は実に素晴らしい古代の年代記だと評価しますが、誰がどんな意図をもって策定したか、またどんな創作やコピペがあるかを意識しておかないと、六世紀から七世紀初めに権力を振るった蘇我氏一族がより悪人に見えたり、中大兄皇子をアシストし大化改新を成功させた中臣鎌足(日本書紀編纂に深く関わった藤原不比等の父)がより賢者に見えたりします。 

そんな疑問意識をもちながら、私の講話に接して頂ければ嬉しい限りです。