すがけいのブログ

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にほんブログ村 韓国百済の歴史と白村江の戦、そして福岡県水城堤との関連を紹介します

2015年6月のブログ記事

  • 4 「水城堤築造二段階説」登場

    4 「水城堤築造二段階説」登場  実は二〇一一年春に「水城堤築造二段階説」が、九州歴史資料館によって発表されました。 発掘調査の結果、土塁の基底部(幅八十メートル高さ二メートル)と、その上の土堤本体(幅二十メートル高さ七メートル)とは、土を突き固める工法および土質が異なる、と確認できたのです。 そ... 続きをみる

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  • 3 定説への疑問

    3 定説への疑問   3-1 工期に関する疑問   工期への疑問については従来から存在していました。六六三年夏の白村江の敗戦後着手し、水城堤が六六四年完成、大野城、基肄城が六六五年夏完成では、三つの大規模構造物の総工期が丸二年しか存在しません。技術的にはかなり困難な工程です。 しかも三つの構造物は... 続きをみる

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  • 2. 水城堤築造時期の記録

    2. 築造時期の記録 築造時期に関しては、『日本書紀』(以下書紀と略す)にしか記述されていません。これらの大規模構造物に関する書紀の記録を、まず紹介しましょう。   2-1 水城堤・大野城・基肄城の築造時期 天智三年(六六四年)是歳(このとし)条には 『筑紫に大堤を築き水を貯えた。名を水城という』... 続きをみる

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  • 第二話 水城堤は三段階で築造された 1. 水城堤および九州の山城

    第二話 水城堤は三段階で築造された  白村江の戦(六六三年八月)において唐・新羅軍に大敗し、勢いに乗る唐の侵攻を恐れた我が国は、筑紫の地に筑紫防衛ライン(水城堤・大野城・基肄(きい)城)を構築します。  水城堤が、六六三年の白村江での大敗を契機として築造されたことは、殆ど否定する人のないくらい常識... 続きをみる

  • 第一話 4 白村江の大敗は無かった

    4 白村江の大敗は無かった   以上のような認識から、私論としての結論は以下のとおりです。   親百済派 斉明女帝の崩御(六六一年七月)を契機に、国破れた百済王族の悲哀を知る穏健派により、勝ち目の無い百済派兵は中断された。 その結果、白江の戦(六六三年八月)は、唐将劉仁軌軍と百済王子豊璋軍(倭人を... 続きをみる

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  • 第一話 3-7 敗戦国として処遇されていない

    3-7 敗戦国として処遇されていない かりに白江の戦で大敗を帰し、我が国が唐の敗戦国であったとするならば、その処遇において矛盾が生じています。 唐の敗戦国への基本的な処遇は、都護府設置による羈縻支配です。羈縻支配は周辺諸国において既に手馴れた手法であり、我が国に適用することは十分可能であったはずで... 続きをみる

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  • 第一話 3-6 唐からの援軍は七千人だった

    3-6 唐からの援軍は七千人だった   ところで、『旧唐書劉仁軌伝』では六六三年の戦をどう伝えているでしょうか。私の読み下しを示します。 『(百済)扶餘豊は福信(抵抗軍の主力将軍である鬼室福信)を殺害した。また高句麗と倭国に兵を送るよう使いを出した。(百済復興軍の勢いが増し、劉仁軌は本国唐へ救援軍... 続きをみる

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  • 第一話 3-5 百済亡国の悲報は早々と届けられていた

    3-5 百済亡国の悲報は早々と届けられていた   大国唐と戦う恐さは、今では想像できないほど大きいと思います。よく日米開戦を引き合いに出す方もおいでですが、状況は全く違います。やっと国家の体を成しはじめ、政治制度や法制度、都形態や宗教・医術・文化まで見習うお師匠さまに立ち向かうのは、横綱と小学生の... 続きをみる

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  • 第一話 3-4 大本営はすでに飛鳥に帰っていた

    3-4 大本営はすでに飛鳥に帰っていた   斉明女帝を筆頭に筑紫にやってきた大和政権。この遷宮開始は六六一年一月のことです。前年の六六〇年夏には百済が降伏していますから、この筑紫入りもちょっと不思議ですが、正確な情報が届いていなかったと考えておきましょう。 少なくとも筑紫入りの頃には、朝鮮半島へ兵... 続きをみる

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  • 第一話 3-3 当時の我が国に水軍は存在しなかった

    3-3 当時の我が国に水軍は存在しなかった 我が国で海上での戦といえば、案外数少ないことにお気付きですか。河川を挟んだ戦はありますが、海上となると、織豊時代以前では秀吉の文禄・慶長の役(一五九二~一五九八年)、厳島の戦(一五五五年)、蒙古軍が襲来した文永(一二七四年)弘安の役(一二八一年)、そして... 続きをみる

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  • 第一話 3-2 当時の我が国に万余の出兵は無理である

    3-2 当時の我が国に万余の出兵は無理である 書紀によれば六六三年だけでも、単純足し算で三万七千人の兵力を渡海させたことになっています。さてこの頃の我が国に、これだけの多くの兵を海外に送る体力があったでしょうか。 兵士数に関する記録は少ないのですが、七六一年西海道使 吉備真備の記録として九州八カ国... 続きをみる

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  • 第一話 3 定説を否定する理由

    3 定説を否定する理由 3-1 定説の小さなほころび 『唐書』にも記録され、書紀にも描かれている「白江の戦」あるいは「白村江の戦」ですから、定説は正しいと捉えるのは当然だといえます。 しかしこの鉄壁の定説に小さなほころびが存在するのです。それは戦の合理的な動機が見当たらないことです。 危険な対馬海... 続きをみる

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  • 第一話 2『唐書』等が示す百済派兵と白江の戦

    2 『唐書』等が示す百済派兵と白江の戦 2-1 『日本書紀』による百済救援軍の派兵規模 『日本書紀』(以下書紀と略す)では、我が国から百済への派兵規模を次のように記録しています。 ①六六一年八月、前軍後軍の二軍編成による派遣(兵力不明) ②六六一年九月、百済王子豊璋に兵五千余を付けて送る ③六六二... 続きをみる

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  • 第一話 1-2 唐の百済侵略と高句麗攻略

    1-2 唐の百済侵略と高句麗攻略 朝鮮半島に眼を移すと、高句麗と百済そして新羅の三カ国がそれぞれの領土占有を巡って、常に小さな争いと外交課題が存在しながらも、三竦みの微妙な均衡感を保っていた時代でした。 高句麗への北側からの攻撃で失敗を繰り返した唐は、南側からの攻略を考え、その第一歩として目障りな... 続きをみる

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  • 第一話 白村江の大敗は無かった 1-1 中国(隋・唐)と高句麗の確執

    第一話 白村江の大敗は無かった   六六〇年、百済国は唐・新羅連合軍に破れ国家は降伏しますが、百済復興を願う民が抵抗軍を組織します。我が斉明女帝は大和から筑紫に遷宮(朝倉(あさくら)橘廣庭宮(たちばなひろにわのみや))し、百済救援軍の派遣を指揮。しかし朝鮮半島白村江の海戦(六六三年八月)において唐... 続きをみる

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