すがけいのブログ

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にほんブログ村 韓国百済の歴史と白村江の戦、そして福岡県水城堤との関連を紹介します

2015年5月のブログ記事

  • 旅紀行;扶餘の街と太宰府の街、そして防御構想

    旅 扶餘の街と太宰府の街、そして防御構想 百済の古都 扶餘の街を散策して歴史の息吹が数々残っている穏やかな街として、古都太宰府との共通点を肌身に感じ取ることが出来ました。そういう意味で扶餘郡と太宰府市が姉妹都市として交流を積極的に継続することには大いに賛同できます。 但し、扶蘇山城・白馬江に守られ... 続きをみる

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  • 序話 3-2  百済都城の変遷

    3-2 百済都城の変遷 百済の都城変遷の歴史は、むしろ悲劇の歴史です。 (一)漢城時期 四世紀の百済の都は、漢江下流南岸にあり、漢城と呼ばれていました。 漢城時代の百済は、南側に拡大を続ける高句麗との死闘を繰り返していましたが、四七五年には首都漢城を落とされ蓋鹵王が戦死してしまいます。 (二)熊津... 続きをみる

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  • 序話 3-1 高句麗都城の変遷

    3 都城の変遷と我が国への影響 3-1 高句麗都城の変遷 高句麗の築城技術は、九州の山城や大宰府羅城に大きな影響を与えていると考えます。 (一)卒本城時期 高句麗を建国した朱蒙(チュモン)が定めた首都卒本(ソルボン)の地は、現在の遼寧省本渓市であり、都城の卒本城は五女山山城に比定されています。 (... 続きをみる

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  • 序話1,2 七世紀の中国と朝鮮半島

    序話 七世紀の中国(唐)および 半島三国(高句麗、新羅、百済)を知る  1  巨大な大唐帝国 七世紀に我が国が白村江で戦ったという中国唐国ですが、この時代の唐は、実に巨大な大帝国でした。特に第二代太宗の時代は、「貞観の治」と呼ばれる安定した政治が行われ、版図を大きく広げました。 その版図の拡大にお... 続きをみる

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  • はじめに 百済をめぐる三つの講話です

    はじめに  七世紀に活躍した二人の筑紫人、すなわち伊吉(いき)博徳(はかとこ)と大伴(おおとも)部博(べはく)麻(ま)を主人公にした小説『二人の筑紫人と白村江の戦』の出版以来、幸いなことに講話を依頼される機会が増えました。 主題とした「白村江の戦」(六六三年)、あるいは表紙の『筑前国大宰府水城切堀... 続きをみる

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