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第三話 結論 車木ケンノウ古墳が皇極帝(宝皇女)の陵墓、そして牽牛子塚古墳が斉明帝(間人皇女)の陵墓だ

4-3  二つの陵墓と二つの墓室が意味するもの


これらの新しい発掘結果はさまざまな論議を呼んでいますが、新しい牽牛子塚古墳を皇極帝すなわち斉明帝(宝皇女)の陵墓と考え、古墳内にある二つの石室を、書紀天智称制六年条の記述どおり、宝皇女の墓室とその娘間人皇女の墓室とする考え方が、大勢を占めつつあります。
ですがこの考え方には、二つほど不可思議な点があるのです。


まず天智帝は、母と妹を何故同葬にしたかという点です。妹 間人が一人身を過したのならともかく、間人皇女は叔父孝徳帝のれっきとした皇后なのです。ですからもし妹を誰かと同葬するなら、母ではなく孝徳帝のはずなのです。


次に天智帝は、この陵墓を誰のために築造したかという点です。二つの石室をわざわざ準備し、母と妹を一緒に八角墳の天皇陵に葬ろうとしたのですから、天智は妹間人の死をいまかいまかと待ち構えていたということになります。
斉明と妹間人の年齢が近いならまだしも、定説どおりなら二人は三十歳以上離れているのです。


いったい天智はいつまで母の亡骸を仮安置するつもりだったのでしょう。ひょっとしたら、妹より先に自らの死を迎える可能性だって十分にあったはずです。


この八角墳の主体的埋葬者を帝位を担った斉明帝だと考えるなら、斉明帝が崩御された六六〇年前後に亡くなった皇族が、斉明帝の隣に安置されたと考えるほうが、間人説よりも論理的だと考えます。(なお、八角墳の代表例として天武・持統合葬陵とされる野口王墓古墳(明日香村)が存在します。この場合の埋葬主体者は、当然ですが後に亡くなった持統天皇でしょう。)


私は、前述したとおり皇極帝と斉明帝の別人説をとりますから、車木ケンノウ古墳が皇極帝(宝皇女)の陵墓、そして牽牛子塚古墳が斉明帝(間人皇女)の陵墓だと考えます。
さらに隣の石室に眠るのは斉明帝(間人皇女)がその死を嘆き悲しみ、「私の死後、必ず陵に合葬せよ」と命じた六五八年没の建王だと考えます。二つの陵墓と二つの石室の存在が、私のささやかな夢をあと押ししてくれています。


なお私が建王と考える背景には、「建王は間人皇女の子であり、また間人皇女が最初に儲けた漢皇子でもある」、さらに「斉明帝重祚は、天智帝の娘 鵜野(うのの)讃良(さららの)皇女(ひめみこ)(持統天皇)の創作である」といった理由がありますが、ここでは省略させて頂きます。


 第一話から、第三話まで延々と続く 拙劣な話を聞いていただきありがとうございました。
 少し お休みして(実は 大阪へ旅をします)、次回は 第一話、第二話、第三話の結論部分を総括させて頂きましょう。

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