すがけいのブログ

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にほんブログ村 韓国百済の歴史と白村江の戦、そして福岡県水城堤との関連を紹介します

2015年8月のブログ記事

  • 六六三年の白江もしくは白村江での 倭軍の大敗は無かった まとめ最終回

    六六三年の白江もしくは白村江での 倭軍の大敗は無かった   国滅びた百済では抵抗軍が活動し、豊璋が率いる百済救援軍(我が国の兵士が中心)も、これに合流します。 小うるさい抵抗軍殲滅のため、唐は孫仁師率いる兵力を百済に送り込みます。この兵力は、七千人です。 『青萊海之兵七千人』(旧唐書列伝東夷百済国... 続きをみる

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  • ●筑紫地域の数々の防御陣整備は、百済降伏の六百六十年から始まった  まとめその2

    ●筑紫地域の数々の防御陣整備は、百済降伏の六百六十年から始まった   九州では筑紫一族が大勢力を誇っていた時代(六世紀)があり、すでにその時代に、原太宰府地域(大宰府設置以前の地域)を中心として、柵、城といった防衛陣は構築されていました。 「柵」は木材を立て連ねて一定の地域を画した我が国の防衛施設... 続きをみる

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  • ●孝徳帝の後を継いだ斉明帝は、皇后であった間人皇女である まとめその1

    ●孝徳帝の後を継いだ斉明帝は、皇后であった間人皇女である  六六〇年七月に、百済国が唐と新羅の連合軍によって蹂躙され、首都扶余は焼け野原になってしまいます。 百済の滅亡と遺民の抗戦を知った斉明女帝は、我が国に滞在していた百済王子豊璋(百済義慈王の王子豊)を、百済に送り帰します。 そして、六六一年 ... 続きをみる

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  • 関西旅行の思い出 「えっ 扉が開かない」

    「えっ 扉が開かない」   あれは大学入試を終えたばかりだったから、昭和39年3月。窮屈な受験体制からやっと開放されて一息ついた私は、奈良県今市にある母の実家を訪問することにした。福岡県の小倉駅から夜行列車を利用して大阪駅へ、さらに奈良駅で桜井線に乗り換えて実家に近い帯解(おびとけ)駅に向かった。... 続きをみる

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