すがけいのブログ

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にほんブログ村 韓国百済の歴史と白村江の戦、そして福岡県水城堤との関連を紹介します

第一話 3-6 唐からの援軍は七千人だった

3-6 唐からの援軍は七千人だった

 

ところで、『旧唐書劉仁軌伝』では六六三年の戦をどう伝えているでしょうか。私の読み下しを示します。

『(百済)扶餘豊は福信(抵抗軍の主力将軍である鬼室福信)を殺害した。また高句麗と倭国に兵を送るよう使いを出した。(百済復興軍の勢いが増し、劉仁軌は本国唐へ救援軍の派兵を願い出る)孫仁師は(百済復興軍に苦しむ百済駐留軍を)援けるため海を渡る。

孫仁師は(百済に滞陣していた)劉仁軌と合流し、士気は大いに高まる。諸将と軍事会議を開く。ある将は水陸の要である加林城を先に攻撃すべしという。しかし劉仁軌は、加林城は堅固でありこれを攻めると兵の消耗が激しい、加林城は持久戦としておき、先に周留城を攻め落とすべきである。周留城は賊軍の巣窟であり、賊はここを中心に活動しており、周留城を落とせば他の諸城も下るに違いないという。

孫仁師は新羅文武王とともに、陸軍を率い周留城を目指す。劉仁軌と百済王子隆(洛陽に連行された百済王子の一人)は水軍および糧船を率い、熊津江より白江に向かい、周留城を目指す。その時、仁軌軍は倭兵に白江の河口で出会った』

この記述内容は、『旧唐書列伝東夷百済国』『新唐書列伝劉仁軌伝及び列伝百済』『三国史記百済本紀義慈王』においても、ほぼ共通しています。

 

記述内容が少し異なるのは、『新羅本紀文武王大王報書』です。こちらでは、倭との直接的な戦闘は記述されず、倭船が千艘停泊していたとあります。

『倭船千艘 停在白江 百濟精騎 岸上守船 新羅驍騎 爲漢前鋒 先破岸陣 周留失膽 遂即降下』

(倭の船千艘が白江に停泊し、百済の精兵が守っていた。新羅の騎馬が先鋒として岸の陣を打ち破ったため、周留城は戦意を失い降伏した)

 

次に唐から派遣された孫仁師の救援軍の規模ですが、

『青萊海之兵七千人』(旧唐書列伝東夷百済国)『發齊兵七千往』(唐書列伝百済)そして『詔發靑海之兵七千人』(三国史記百済本紀)

とあり、いずれも七千人が海を渡ったと記録されています。


一方『三国史記新羅本紀』では、『孫仁師率兵四十萬 至德物島』とあり、六六〇年の蘇定方率いる百済侵攻軍十三万人と比べてもかなり大規模な数値となっています。既に占領下に治めた国への救援ですから、四十万人は過大すぎる数値でしょう。

 

前述した『旧唐書』や『唐書』の記録どおり、救援軍は七千人として話を進めて行きましょう。もちろん既に百済に唐兵は在留していますから、新羅軍も含めた全軍では二万人程度の軍勢となるでしょう。


このうち海上を進んだのは唐全軍ではなく、劉仁軌と百済王子隆が率いる分派です。しかも糧船も一緒ですから、どちらかと言えば補給部隊の色合いが濃いと思えます。

『この一軍が白江付近で、百済王子豊が率いる一軍と出会う。戦は四戦とも唐が勝利し、豊軍は舟四百艘を失い、破れた豊は逃げ去った』(『旧唐書劉仁軌伝』より)

ここから読み取れることは、六六三年の「白江の戦」は、唐水軍(糧船を含む)と豊璋軍(倭人を含む)との局地戦であったということです。


大目に見積っても、唐軍三千人と豊璋軍二千人程度の戦だったでしょう。それでもそれなりの戦闘規模ですが、倭軍数万人が参加した大規模な戦であったとはとても考えられません。

六六三年の白江の戦で、倭人も加わった豊璋軍が唐軍に敗れたのは事実でしょうが、その敗戦が我が国に大きな危機感をもたらしたと考える従来の定説は、この「白江の大敗」を過大評価し、そして六六〇年の百済国降伏を過少評価したものだと考えます。

 

  • 唐の百済攻略図(660年)

    唐と新羅は、合計十八万人の大軍で、油断しきっていた百済を攻め落としました



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  • 白江の戦(663年)の戦闘規模

    660年の十三万人と比べると、唐の派兵数はかなり小規模の七千人だったと考えられます。別動隊である劉仁軌と扶餘隆軍の規模は、三千人程度でしょう



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    ●本書に登場する地名の概略図です。扶餘の街は海岸部から錦江沿いに40キロ強の距離にあり、案外奥まった内陸部にありました。


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    ● 周留城(支羅城または州柔城、その位置については多くの説があるが、白江との関係で、錦江下流北側の山岳地帯にあったと推定されている)

           加林城(五〇一年(百済東城王二三年)佐平 白加が築城。この地方は当時加林郡といったので、加林城と呼ばれた。百済の城郭中、築城年がはっきりした唯一の城。この山城は、扶餘の南方に位置する聖興山(標高二六〇m)の山頂にあり、外周一キロ半。一部の城壁は石築だが大部分は版築土塁。都である泗沘全体を南から見渡せる位置にある)

第一話 3-5 百済亡国の悲報は早々と届けられていた

3-5 百済亡国の悲報は早々と届けられていた

 

大国唐と戦う恐さは、今では想像できないほど大きいと思います。よく日米開戦を引き合いに出す方もおいでですが、状況は全く違います。やっと国家の体を成しはじめ、政治制度や法制度、都形態や宗教・医術・文化まで見習うお師匠さまに立ち向かうのは、横綱と小学生の相撲のようなものです。日米開戦時と違って、ひとときの勝利さえ覚束ない力量差があったでしょう。

唐と戦端を開いたという愚策の論議を回避するために、「我が国は新羅を討ち、百済を救う」と考えており、唐との戦は眼中になかったという説(「出会い頭説」)があります。

気持ちはわかりますが、朝鮮半島への出兵が唐との直接対決となることは、案外早い時期に分かっていました。


六六一年五月に、第四回遣唐使は二年弱の唐滞在(六五九年八月~六六一年五月)を終え帰国しています。六六一年三月に斉明帝は筑紫入りしていますから、筑紫の地で遣唐使節から詳細な情報が報告されたことは疑いようがありません。

遣唐使節は

①百済国が降伏したこと

②百済王族・臣下五十人が、唐の洛陽に連行されてきたこと

③百済の地には都督府が設置され、百済は既に唐の属領となっていること

を伝えたはずです。


大国唐と戦う恐さを知った大和政権は、この六六一年五月に、もう「攻め」の意欲は完全に吹っ飛んでしまったことでしょう。

 

 

       4回遣唐使の移動軌跡

(6598月~6615)

 遣唐使は、那大津~百済~洛陽~長安(ここで幽閉)、そして長安~洛陽~済州島~那大津と移動し、661年五月に帰国しました




第一話 3-4 大本営はすでに飛鳥に帰っていた

3-4 大本営はすでに飛鳥に帰っていた

 

斉明女帝を筆頭に筑紫にやってきた大和政権。この遷宮開始は六六一年一月のことです。前年の六六〇年夏には百済が降伏していますから、この筑紫入りもちょっと不思議ですが、正確な情報が届いていなかったと考えておきましょう。

少なくとも筑紫入りの頃には、朝鮮半島へ兵を送るという意欲はあったと思われます。

しかし斉明帝は七月に急死し、その葬儀の為に中大兄皇子(後の天智帝)は飛鳥に帰ってしまいます。六六一年十月以降、筑紫の地には大本営は存在しません。一説には、中大兄皇子の弟である大海人皇子(後の天武天皇)が筑紫に留まったのではないかといわれていますが、残念ながらその証拠は存在しません。

倭軍の有能な将が派兵を取り仕切ったと考えても良いのですが、百済救援の最先鋒であった斉明帝が亡くなり、百済降伏の実情が時間の経緯とともに次第に明らかになってきた六六三年ごろには、もう大国唐と戦う意欲は失せ、いかに唐の侵攻を食い止めるかに我が国の戦略は変化していたはずです。

朝鮮半島の詳しい情報が伝わるにつれ、「攻め」から「守り」へと方針転換があったと考えることが自然です。

大国唐を相手にする勝ち目のない戦に多くの兵を送り出す、そんな愚策を敢えて実行するほど、我が国に智恵が無かったとは考えられません。