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第三話 1-3 宝皇女(斉明帝)の再登場(重祚)

1-3 宝皇女(斉明帝)の再登場(重祚)(六五五年~六六一年)

 

孝徳帝の崩御により、廃位に追い込まれたはずの宝皇女が、六五五年正月飛鳥板葺宮で再び帝として即位(重祚)します。これが斉明帝です。

この時、宝皇女は既に六十二歳になっています。この時点では、山背大兄王も古人大兄皇子も既に殺害されていますから、舒明帝と宝皇女の長子であり、乙巳の変の指揮を執ったはずの中大兄皇子が堂々と帝位に就いて何の不思議も無いのですが、年取った老母を再び帝位に担ぎ出しています。

 

同一人物が二度即位する「重祚」という即位形式も、これが史上初めての出来事ですし、全く不思議な即位だといっていいでしょう。


 なお書紀の斉明帝即位前紀条に、『(斉明帝は)最初高向王(たかむこおう)と結婚し、漢皇子(あやのみこ)を産んだ』とあります。

 漢皇子については、この条のみに登場するだけですから、何者であるかを特定する定説はなく、この時期、書紀への登場が希薄な大海人皇子(後の天武天皇)のことではないかという説もあります。














第三話 1-2 孝徳帝(宝皇女の弟)の即位(六四五年~六五四年)

 
1-2 孝徳帝(宝皇女の弟)の即位(六四五年~六五四年)
 
六四五年に即位した孝徳帝は、阿倍倉梯麻呂を左大臣に、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣に、そして旻(みん)法師(ほうし)と高向玄理を国政一般担当の国博士に任じ、新しい国政を開始します。
我が国では初めて元号を立て、六四五年を「大化元年」と定め、翌六四六年には改新之詔を発して、公地公民や班田収授之法ら数々の積極的な制度改革方針を打ち出します。


姉(宝皇女)の娘である間人(はしひとの)皇女(ひめみこ)を皇后にするとともに、左大臣阿倍倉梯麻呂の娘小足(おたらし)(ひめ)を妃とします。そして小足媛との間には、後に悲劇の死をとげる有間皇子を儲けます。


六五〇年には元号を「白雉」に改元し、六五三年五月に吉士長丹を、六五四年二月には高向玄理を唐に相次いで派遣するなど、超大国唐との友好関係を深めてもいます。
さらに六五二年には飛鳥から離れ、現在の大阪の地に本格的な朝堂院様式の難波長(なにわなが)柄豊碕宮(らのとよさきのみや)を完成させ、ここで政事(まつりごと)をつかさどります。
このような一連の活動を見ますと、孝徳帝は従来の体制を大きく改革しようとしていたことが分かります。定説として大化改新は中大兄皇子の功として取り上げられていますが、四十九歳の老練な孝徳帝が主体者だと考えたほうが自然でしょう。


なお大化改新の新制度に関しては、「郡・評議論」(「郡」は大宝令以降での用語であり、それ以前は「評」であったことが証明された)によって、書紀編纂時の書き加えであろうというのが定説になってきています。


六五三年の秋、中大兄皇子は、豊碕宮から母 宝皇女と妹 間人皇女を飛鳥に強引に連れ帰ってしまい、政事の本体を飛鳥に戻してしまいます。一人難波に残された孝徳帝は、その一年後の六五四年十月に寂しく死を迎えてしまうのです。
新しい改革を目指した孝徳帝の御世は、わずか十年の短期間で幕を閉じ旧勢力の復活を許してしまいます。
 

「第三話 斉明帝はいったい誰だ」を始めます

第三話 斉明帝はいったい誰だ
 
『第一話』『第二話』でも取り上げましたように、斉明帝は百済救援に向けて我が国からの海外派兵を陣頭指揮した女帝です。ただこの女帝に関しては、やや不可解なことが多すぎるのです。
 
1 皇極帝から斉明帝まで


1-1 皇極帝(宝皇女)時代(六四二年~六四五年)


『日本書紀』に登場する宝皇女(すなわち皇極帝でもあり、斉明帝でもある)は、極めて不思議な女帝です。
彼女は、夫である舒明帝崩御により六四二年一月に四十九歳で帝位に就いています。皇后の即位という点では推古帝に次ぐ、史上二番目の女帝誕生になります。
六四一年の舒明帝崩御時、帝位に就くべき有力な候補者は、舒明帝の長子古人(ふるひとの)大兄(おおえの)皇子(みこ)、舒明帝とも王位を争った厩戸(うまやどの)皇子(おうじ)を父に持つ山背(やましろの)大兄王(おおえのみこ)、そして舒明帝と宝皇女の間に産まれた中大兄皇子の三人がいました。
これらの有力な候補者を押し退けて、女性である宝皇女が皇極帝として皇位に就けたのは、当時の実力者蘇我蝦夷、入鹿親子の意向が強く反映されたと考えてよいでしょう。


書紀の皇極元年(六四二年)八月条には『雷なりて大雨ふる』と、皇極帝による雨乞いの成功が記載されているところから類推しますと、この女帝は祭祀における霊的能力を有していたとも考えられます。また長野善光寺(長野県)の『善光寺縁起』にも登場しています。
皇極帝時代には、蘇我蝦夷が大臣として重んじられ、その子入鹿が自ら国政を執って蘇我氏本家の絶対的繁栄時代をもたらしますが、宝皇女が帝位についた経緯を振り返れば当然のことだといえるでしょう。
ところが六四五年六月に乙巳(いっし)の変が起こり、中大兄皇子らが宮中で蘇我入鹿を討ち、翌日、入鹿の父 蝦夷が自害してしまいます。
突然に蘇我時代が終焉し、大きな後ろ盾を無くした五十二歳の宝皇女はその帝位を降り、一歳年下の同母弟である軽皇子が、六四五年六月に孝徳帝として即位することになります。


帝位は神代紀から終身制が大原則であり、帝位の「生前譲位」は帝史上これが初めての事例です。実態としては、皇極帝は改革派によって廃位に追い込まれたと解釈したほうが分かりやすいでしょう。