すがけいのブログ

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村 韓国百済の歴史と白村江の戦、そして福岡県水城堤との関連を紹介します

第三話 3-3 間人皇女が斉明帝ではないか

3-3 間人皇女が斉明帝ではないか
 
ここで疑問となるのは、中大兄皇子は六四五年(乙巳の変)から六六八年までの長い期間、何故皇太子のままでいなければならなかったのかということです。


孝徳帝の没後(六五四年)でも帝に就くことは可能だったでしょうし、斉明帝の没後(六六一年)すぐに帝となっても不思議はないのですが、この後七年間も、中大兄皇子は皇太子のまま(称制)だったのです。(称制とは、先帝が崩じたのち即位の式を行なわず執政することで、天智帝の正式即位は六六八年です)


 この不思議さを説明する一説として、中大兄皇子と間人皇女は同母兄妹でありながら愛し合い、孝徳帝在世中に中大兄皇子は間人皇女を妃としたので、これを非難する世論をはばかるため帝位につくのが遅れたともいわれています。
この理由の一つとして、先に紹介した『金木着け 吾が飼ふ駒は』が取り上げられます。歴史解釈としては珍しく世俗的な話ですね。
 
しかし、感情起伏が激しくかつ好戦的な年上の姉 間人皇女が、皇后として孝徳帝の後を継ぎ斉明帝に即位したと考えれば、中大兄皇子の帝位が遅れてしまうのは当然だと考えられます。


結局、六六七年(天智称制六年)二月に母 宝皇女と姉 間人皇女の合葬を行なった後、中大兄皇子は、まるで呪縛が解けたかのように、六六八年四十三歳になってやっと帝として正式に即位しますが、三年後の六七一年には自殺かと暗示するような弱々しさで崩御します。


天皇名には、天皇在世中の名である諱(いみな)と、没後に奉られる諡(おくりな)とがあります。現在一般的に使用されている天皇名はおくりなである漢風諡号です。
「天智」という漢風諡号は、智恵溢れる帝であった印象を与えてくれていますがこれはあくまで没後の呼び名です。(なお本書に登場する中国、朝鮮半島を含む王称は殆どおくりなである諡号を使用しています)

第三話 3-2 間人皇女(宝皇女の娘)を紹介しましょう

3-2 間人皇女(宝皇女の娘)を紹介しましょう


間人皇女は、舒明帝と宝皇女との娘であり、孝徳天皇の皇后です。さらに中大兄皇子(天智帝)と大海人皇子(天武天皇)とは兄妹です。
この間人皇女に関連する書紀の記録では、六四五年に孝徳帝の皇后に即位したこと、そして六六五年に没したこと以外、書紀には登場機会が殆どありません。
なお天智称制四年(六六五年)二月条には『間人大后薨(かむさ)りましぬ』とあります。大后とは皇太子を儲けた皇后の尊称ですから、この時点で大后と呼べるのは中大兄皇子を儲けた宝皇女しか該当せず、書記の記述に何故か混乱がみられます。
書紀においては記録の少ない間人皇女ですが、幾つか気になる点があります。それは間人皇女の年齢と性格に関するものです。
 
(一)間人皇女の年齢について
間人皇女は中大兄皇子の妹と位置づけられていますから、中大兄皇子生誕の六二六年よりも後に生まれているはずです。仮に三歳下だと考えると、孝徳帝の皇后に就いた六四五年には未だ十七歳という若さになります。
もちろん、この時代十七歳で后になることは珍しいことではありませんが、やや不自然な感じを受けるのは、夫となる孝徳帝の年齢が既に四十九歳にもなっていたことです。
間人皇女は宝皇女の娘ですし、孝徳帝は宝皇女の弟ということを考えますと、三十二歳も歳が離れた婚姻を推し進めなければならなかった母 である宝皇女の気持ちが分かり難いのです。
書紀の舒明二年(六三〇年)春条には、天智、間人、天武の順に紹介されています。このため定説として、間人皇女は天智帝すなわち中大兄皇子の妹であると考えられています。
しかし、この記載が年齢順であると言い切れるかどうかは疑問です。
そこで、宝皇女の出産年齢を検討して見ましょう。宝皇女が中大兄皇子を産んだのは数え年で三十三歳の時です。当時の食事情や医療技術を考えますと、これでさえかなりの高齢出産でしょう。
資料の存在する聖武、淳仁、光仁、桓武の天皇四代(七二四年~八〇六年)における、帝妃四十三人の出産状況を調べてみますと、十代あるいは二十代前半での出産が多く、最高齢では三十歳での出産が二事例という状況でした。
このように高齢出産が稀有であるのは、往時の栄養状況もさることながら、一夫多妻制が大いに影響していると考えます。ある一定の年齢に達すると夫と床を一緒にしない、いわゆる「お褥(しとね)下がり」があったからでしょう。
例外はいつの世でも存在しますから断定はし難いのですが、三十三歳の宝皇女が中大兄皇子を産み、さらにその後、間人、大海人を出産したとは考えるのはかなり無理を感じます。
私は、間人皇女と中大兄皇子の長幼の順は、逆だと考えます。
すなわち、間人皇女は中大兄皇子よりも一回り近く歳の離れた年上の姉(宝皇女二十代前半の子)だと考えれば、皇后即位時の年齢の若さや、中大兄皇子の即位が異常に遅れた理由も頷けるのです。(なお大海人皇子については、宝皇女の血統とは私は考えていませんが、その理由についてはここでは省略させて頂きます)
 
(二)間人皇女の性格について
間人皇女を詠った孝徳帝の歌が、白雉四年(六五三年)是歳条にあります。
『金木着け 吾が飼ふ駒は 引出せず 吾が飼ふ駒を 人見つらむか』
(木にくくりつけて逃げないように大切に飼っていた馬が、私の知らない間にどうして他の人と親しくなって、私のもとから連れ去られてしまったのだろう)
この孝徳帝の歌は、中大兄皇子が難波宮から一族を飛鳥に連れ帰った六五三年の飛鳥事件の直後に詠まれ、自分の手元から去っていった間人皇后への愛しみと恨みの想いが含まれているように感じ取れます。
この飛鳥事件の時、五十七歳の孝徳帝から見ると、間人皇女は牝馬に例えるに相応しいくらい活動的な女性だったのでしょう。この間人皇女の描写は、「土木好きで好戦的な若い女帝」という斉明帝のキーワードと、一致していると私は考えます。
 

第三話 3 斉明帝は宝皇女ではない

3 斉明帝は宝皇女ではない
皇極帝と斉明帝とではその人間性が全く異なります。書紀では同一人物と伝えていますが、二人は異なる人物、つまり斉明帝は、「土木好きで好戦的なもっと若い女帝」ではないかと考えてみたらどうでしょう。


3-1 「中皇命」は一体誰でしょう 
 
「中皇命(なかつすめらみこと)」とは、中継ぎ的に皇位を継いだ人物の意味だと理解されます。この中皇命の歌が『万葉集巻一』に、五首登場しています。
その内二つの歌(三番と十番)には、次のような題詞が付けられています。


三番  天皇内野に遊猟したまえる時、中皇命の間人連老をして献らせ給う歌 (天皇遊猟内野之時中皇命使間人連老献歌)   
十番  中皇命の紀の温泉に往でます時の御歌
(中皇命往干紀温泉之時御歌)


この題詞に登場する「中皇命」が誰であるかについて古くから論争があり、「宝皇女説」、宝皇女の娘「間人皇女説」、それに天智帝の皇后「倭姫説」があります。
「宝皇女説」は、斉明帝そのものが中皇命と捉えられていたという考え方です。
「間人皇女説」は、斉明帝崩御(六六一年)後、兄の中大兄皇子に擁立され、女帝として皇位に就いたという考え方です。なお、「間人」と云う名前は、丹後国竹野郡間人郷にちなむ名前で、この地に住む間人連(はしひとのむらじ)といわれた部族の娘が乳母となったので、この名があるものと考えられます。
「倭姫説」の場合は、やや時代は降りますが、夫である天智帝崩御(六六八年)から、壬申の乱(六七二年)で勝利した大海人皇子が天武天皇として即位するまでの期間、天智帝を引き継いだ女帝だったのではという考え方です。


中継ぎ的に皇位を継いだという意味では、確かに三人とも中皇命であった可能性はあります。
しかし『万葉集』三番の題詞に注目してください。『中皇命の間人連老をして献らせ給う』とあります。このように中皇命には、いつも間人郷出自の間人連老が供をしていた様子が伺えます。
すなわち、中継ぎ的に皇位を継いだ中皇命とは、宝皇女の娘である間人皇女の可能性が最も高いといえます。
書紀では間人皇女が皇位に就いたとは全く記していませんが、『万葉集』では間人皇女が女帝であった可能性を示しているのです。