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鞠智城について その2

7-2 鞠智城の築城意図(私論)


しかし、大宰府羅城を構築する大野城、基肄城からみると、兵站基地であれ軍事基地であれ、鞠智城は極めて遠すぎるという難点があります。九州道太宰府ICから菊水ICまで六十七キロありますから、仮に直線的に移動したとしても徒歩では丸二日強(日中の徒歩移動は時速三キロ×十時間程度)の距離感になります。(ちなみに豊臣秀吉の大返しとして有名な強行軍は、岡山から京都までの約二〇〇キロを七日間で駆け抜けました)
私は、朝倉橘廣庭宮に比定されている朝倉市把木町でさえ、大宰府から遠いと考えていますから、大宰府から鞠智城はとんでもなく遠く感じてしまうのです。
もし大宰府羅城に兵站基地が必要だとすれば、むしろそれは朝倉橘廣庭宮の比定地である朝倉と考えたほうが合理的です。朝倉市把木町であれば、筑後平野という穀倉地を抱えており、また日田から豊後経由で大和政権の本拠地である飛鳥に通じていますからね。
 
それに、六六三年当時、この鞠智地域が大和政権の命によって大規模な築城に取り掛かるほど、完全な支配下に含まれていたかは、やや疑問です。当時の大和政権の勢力圏は、北方では福島県会津くらいまで、また南では熊本、宮崎県くらいまでは広がっていましたが、辺境地帯ではまだまだ完全に管理するまでは至っていなかったと考えたほうが自然です。(阿多、大隅、日向等の隼人の大和政権への朝貢が記録されているのは、天武十一年(六八二年)です)
 
この城の築造に関しては、菊池川沿約四キロ下流にある江田(えた)船山(ふなやま)古墳(熊本県玉名郡和水町)を意識したら如何でしょう。(この地域には、前方後円墳の双子塚古墳(山鹿市)や装飾古墳であるチブサン古墳(山鹿市)も存在しています)
江田船山古墳は、日本最古の本格的記録文書である七十五文字の銀象嵌(ぎんぞうがん)銘をもつ大刀が出土したことで有名な、五世紀末から六世紀初に築造された前方後円墳です。
太刀の銘文の一部に『治天下獲□□□鹵大王』 と読め、これが埼玉稲荷山古墳出土の鉄剣の金象嵌銘文と類似することから、獲加多支鹵大王(ワカタケル大王、雄略天皇)とする説が有力となりました。
この説によれば、金象嵌の鉄剣と銀象嵌の鉄刀が製作され、それらを下賜された有力な地方豪族が、北武蔵野稲荷山古墳と肥後江田船山古墳に埋葬されていたということになります。ただし下賜という用語は適切でないかもしれません。六五八年や六五九年の蝦夷対策では『饗応し禄を与える』とありますから、「下賜」というより「宣撫」という意味合いが近いと理解します。




なお『魏志倭人伝』では『その南に狗奴國(一般的には「くなこく」と読む)有り。男子を王となす。その官に狗古智卑狗官(一般的には「くこちひこ」と読む)有り。女王に属せず。郡より女王國に至ること萬二千余里』とあり、狗奴國をこの菊池川流域に比定することが多いようです。卑弥呼時代から、この地は一つに纏まった強力な勢力圏であったことが分かります。
 
   鞠智城を大和政権下での築造と考えるのではなく、菊池川流域を拠点としていた一族が、筑紫君勢力による六世紀の山城築城(水城堤第一段階築造時期)に対抗して、第一期の鞠智城を築いたと考えられませんでしょうか。
   鞠智城第一期築造には九州各地に住み着いた朝鮮半島からの流民たち(主に加羅系や百済系)のアシストがあったでしょうし、第二期の八角形建築物には六六八年に滅亡した高句麗系移民のアシストも加わった、と考えたらいかがでしょう。

7 鞠智城について その1

7 鞠智城について
 
 『二人の筑紫人と白村江の戦』においては、鞠智城の存在は視界外でした。しかし発掘の進んだ最近では「白村江の戦」との関連性も認知されつつあるようです。ですから私なりの鞠智城の位置づけを述べておきましょう。
 
7-1 鞠智城の築城時期(定説)
 鞠智城は七世紀頃に、現在の熊本県北部(山鹿市、菊池市)に築かれた山城です。城の周長は三キロ半、面積は内城五十五ヘクタール、そして外縁地区六十五ヘクタールと推定されており、規模としては中規模な山城と位置づけられます。
 さらにこの山城では全国的に珍しい「八角形鼓楼」(鼓楼は七世紀末から八世紀前半の建造物)の復元が行なわれており、この第二期建築物が鞠智城のシンボルともなっているのです。(なお高句麗の丸都山城の遺跡において、二棟の八角形建築物跡が発掘されています)


 『続日本書紀』の文武天皇時代の修築記事(六九八年)において、初めて鞠智城の名が正史に登場します。
『大宰府に命じて大野城、基肄城、鞠智城の三城を繕治する』
しかし、築城年の記載がないこともあり、白村江の戦で唐・新羅の連合軍に敗れたため、その来寇に備える兵站基地として築城されたものであろう、というのがほぼ定説になりつつあります。
 また、百済系瓦の出土などから、大野城、基肄城と同じく鞠智城は百済人の関与も想定されています。


 定説は、修復記事において大野城、基肄城、鞠智城と出現しているから、築城も大野城、基肄城と同じような意図で同時期に築城されたという考え方です。

阿蘇高森の湧水トンネル七夕祭りを見学しました

 阿蘇高森の湧水トンネル七夕祭りに行ってきました


 このトンネルは昭和48年に掘削が開始されたのですが、出水が激しく中断された鉄道トンネルです。
 計画全長 6キロのうちおよそ2キロまで掘り進められたそうです


 


トンネル内は17度という涼しさで とても快適です


 このひんやりとした空間に七夕の飾りが並ぶ状況は 幻想的な美しさを醸し出していました


 
 夏の暑い期間 一度訪問されたら如何でしょう お勧めのスポットですよ