すがけいのブログ

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第三話 2-3 女帝には愛情と冷淡の二面性があります

2-3 女帝には愛情と冷淡の二面性があります
 
六五八年五月、中大兄皇子の子すなわち斉明帝の孫にあたる建王が、僅か八歳で亡くなってしまいます。この時の斉明帝の嘆きは甚だしく、『私の死後、必ず陵に合葬せよ』とさえ命じています。
そして斉明帝の詠んだ悲しみの歌が、
『今城(いまき)なる 小丘が上に 雲だにも 著くし立たば 何か嘆かむ』
を初め六首も書紀に残され、そのどれもが幼くして世を去った建王の想い出を懐かしむものです。


一方、同年(六五八年)十一月、十九歳に育った有間皇子(孝徳帝の子)が死を賜り、藤白坂(和歌山県海南市)で締刑に処されてしまいます。
孫である建王をこの年五月に失くし、気も狂うばかりに嘆き悲しんでいた六十五歳の女帝が、甥である有間皇子を冷酷にも死に追いやっています。


斉明帝の謎を解くには、この両極端な愛情と冷淡さから分かる、感情起伏の激しさもヒントとなりそうです。 
 
皇極帝と斉明帝とでは、どうもその人間性が全く異なるようです。


いよいよ次回から 斉明帝は宝皇女ではない を掲載します

第三話 2-2 老女帝はとても好戦的です

2-2 老女帝はとても好戦的です
 
また老女帝とは思えない精力的な行動で、北は蝦夷と戦い、そして南は海を越え朝鮮半島百済国への出兵を目指します。
 
(一)蝦夷の征討
書紀の斉明帝四年(六五八年)条から六年(六六〇年)条にかけて、阿倍引田比羅夫による蝦夷征討記が以下のように記載されています。
『斉明天皇四年(六五八年)四月 、阿倍引田比羅夫は船師百八十艘を率て蝦夷に遠征する。降伏した蝦夷の恩荷を渟代・津軽二郡の郡領に定め、有馬浜で渡島の蝦夷を饗応する。
斉明天皇五年(六五九年)三月、 蝦夷国を討つ。
斉明天皇六年(六六〇年)三月、阿倍引田比羅夫は船師二百艘を率て粛慎を討つ』


将軍 阿倍引田比羅夫の活躍によって、蝦夷との戦は落ちついたようにも見えますが、八世紀になってもなお陸奥国(宮城県と福島県)の桃生(もものう)城・伊治(これはる)城、出羽国(山形県と秋田県)の雄勝城・秋田城の築城や、多賀柵を整備した多賀城(宮城県多賀城市)築造といった支配強化策から分かるように、北からの脅威はこの後もずっと継続しています。
 
(二)百済への出兵
六六〇年七月に、百済国が唐と新羅の連合軍によって滅ぼされます。百済の滅亡と遺民の抗戦を知った斉明帝は、我が国に滞在していた百済王子豊璋(百済義慈王の王子豊)を、百済に送り帰します。


ちなみに豊璋は、舒明帝時代の六三一年に来倭しています。そして百済救援軍の一員として六六一年に百済に帰国しますが、白江の戦直前の六六三年六月には、抵抗軍の主力将軍である鬼室福信を殺害してしまいます。抵抗軍のシンボルとして百済に迎えた王子ですが、結束を固めるどころか、むしろ足を引っ張る存在だったと考えられます。
豊璋は、六六〇年百済国敗戦により百済王室と朝廷の殆どが唐に連行された時、幸運にも我が国にいて連行を免れた王族の一員にしか過ぎません。
 
六六一年、六十八歳になった斉明帝は、同盟国百済救援に向けて勇ましくも征西の途につきます。蘇我氏の傀儡であった皇極時代と比べると、斉明時代には専横的なイメージが強く、その人物像は同じ人物と思えないのは私だけでしょうか。


六六一年の正月に畿内を離れ、三月に斉明帝は筑紫の那(なの)大津(おおつ)(福岡県福岡市)に到着します。ところが斉明帝は、六六一年七月、朝倉橘広庭宮においてあっけなく急死してしまうのです。

第三話 2 斉明帝は不思議な老女帝

2 斉明帝は不思議な老女帝
 
   皇極帝(宝皇女)が孝徳帝に譲位した「生前譲位」も史上初めてなら、斉明帝(宝皇女)として再び即位する「重祚」という即位形式も、史上初めての出来事です。帝位の継承形式において、二つも初めての形式が、この宝皇女時代に出現していることも不思議ですが、同一人物であるはずの皇極帝と斉明帝とが、何故かその人間性において大きく変化してしまいます。
 
2-1 老女帝は土木構造物が大好きです
 
   六十二歳で再び帝位に就いた老女帝は、殆ど表面に出ることのなかった皇極帝時代とは異なり、活発に活動を開始します。
   大規模な土木工事を畿内で開始し、それは政事における三つの過失と言われるほどの批判を浴びる大工事でした。
   三つの過失とは、大きな倉庫を建てて人民の財産を集積したこと、「狂心の渠(たぶれこころのみぞ)」といわれる長い溝を掘って公の食料を浪費したこと、舟に石を載せて運びそれを積んで丘にしたこと、といわれています。
  また九州への征西に伴い築造を開始した水城堤、大野城、基肄城といった大型土木工事も、斉明帝の指示によるものだと考えてよいでしょう。