すがけいのブログ

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関西旅行の思い出 「えっ 扉が開かない」

「えっ 扉が開かない」
 
あれは大学入試を終えたばかりだったから、昭和393月。窮屈な受験体制からやっと開放されて一息ついた私は、奈良県今市にある母の実家を訪問することにした。福岡県の小倉駅から夜行列車を利用して大阪駅へ、さらに奈良駅で桜井線に乗り換えて実家に近い帯解(おびとけ)駅に向かった。


ボックス席に腰を降ろした私の前に、二十代半ばの外国の男性が座った。外国人だったら英語が通じるとの思い込みもあり、英会話を体験したい気持ちがむくむくと沸き起こった。「こんなチャンスには恵まれないぞ」という思いがある一方、「通じなかったら恥ずかしいな」という弱気の虫も名乗り出て、顔を上げては俯いて逡巡する私。そんな様子を察したのか、彼は笑みを浮かべて「ハロー」と自分から声を掛けてくれた。その瞬間から、初めての英会話に無我夢中の時を過した。覚えている単語を並べるだけで、とても会話になどなっていなかっただろうが、彼は我慢強く応対してくれた。


帯解駅に到着するアナウンスがあり、ちょっと気取って「グッドバイ」を告げ、私は高揚した気分で車両扉の前に。同乗したお客さんたち注視されているような気配を全身に意識し、扉が開くのを待っていた。5秒、10秒、20秒、でもいつまでも扉は開かない。「えっ」焦る私の気持ちを置いてけぼりに、電車はゆっくりと動き始めた。格好よく決めたかった青二才のプライドは、ずたずたに切り裂かれ、春の大和路の移ろいに視線を漂わせる振りを続けていたが、その光景はひとつも映像として残らなかった。


次の櫟本(いちのもと)駅で分かったのだが、車両扉は解錠後、自分の力で開ける手動式だったのだ。今は「万葉まほろば線」とも呼ばれる桜井線での、わずか10分の短い旅であったが、半世紀以上経っても私の脳裏に焼きついている懐かしい青春のヒトコマである。


暑い関西に行ってきました。ふと懐かしい場面を思い出しました。明日は元の講話に戻る予定です

第三話 結論 車木ケンノウ古墳が皇極帝(宝皇女)の陵墓、そして牽牛子塚古墳が斉明帝(間人皇女)の陵墓だ

4-3  二つの陵墓と二つの墓室が意味するもの


これらの新しい発掘結果はさまざまな論議を呼んでいますが、新しい牽牛子塚古墳を皇極帝すなわち斉明帝(宝皇女)の陵墓と考え、古墳内にある二つの石室を、書紀天智称制六年条の記述どおり、宝皇女の墓室とその娘間人皇女の墓室とする考え方が、大勢を占めつつあります。
ですがこの考え方には、二つほど不可思議な点があるのです。


まず天智帝は、母と妹を何故同葬にしたかという点です。妹 間人が一人身を過したのならともかく、間人皇女は叔父孝徳帝のれっきとした皇后なのです。ですからもし妹を誰かと同葬するなら、母ではなく孝徳帝のはずなのです。


次に天智帝は、この陵墓を誰のために築造したかという点です。二つの石室をわざわざ準備し、母と妹を一緒に八角墳の天皇陵に葬ろうとしたのですから、天智は妹間人の死をいまかいまかと待ち構えていたということになります。
斉明と妹間人の年齢が近いならまだしも、定説どおりなら二人は三十歳以上離れているのです。


いったい天智はいつまで母の亡骸を仮安置するつもりだったのでしょう。ひょっとしたら、妹より先に自らの死を迎える可能性だって十分にあったはずです。


この八角墳の主体的埋葬者を帝位を担った斉明帝だと考えるなら、斉明帝が崩御された六六〇年前後に亡くなった皇族が、斉明帝の隣に安置されたと考えるほうが、間人説よりも論理的だと考えます。(なお、八角墳の代表例として天武・持統合葬陵とされる野口王墓古墳(明日香村)が存在します。この場合の埋葬主体者は、当然ですが後に亡くなった持統天皇でしょう。)


私は、前述したとおり皇極帝と斉明帝の別人説をとりますから、車木ケンノウ古墳が皇極帝(宝皇女)の陵墓、そして牽牛子塚古墳が斉明帝(間人皇女)の陵墓だと考えます。
さらに隣の石室に眠るのは斉明帝(間人皇女)がその死を嘆き悲しみ、「私の死後、必ず陵に合葬せよ」と命じた六五八年没の建王だと考えます。二つの陵墓と二つの石室の存在が、私のささやかな夢をあと押ししてくれています。


なお私が建王と考える背景には、「建王は間人皇女の子であり、また間人皇女が最初に儲けた漢皇子でもある」、さらに「斉明帝重祚は、天智帝の娘 鵜野(うのの)讃良(さららの)皇女(ひめみこ)(持統天皇)の創作である」といった理由がありますが、ここでは省略させて頂きます。


 第一話から、第三話まで延々と続く 拙劣な話を聞いていただきありがとうございました。
 少し お休みして(実は 大阪へ旅をします)、次回は 第一話、第二話、第三話の結論部分を総括させて頂きましょう。

第三話 4 斉明帝の二つの陵墓が意味するもの

4 斉明帝の二つの陵墓が意味するもの


書紀は天智称制六年(六六七年)条の二月、『斉明天皇と間人皇女を小市(おちの)崗上陵(おかのうえのみささぎ)に合葬し、同じ日、孫の大田皇女を陵の前の墓に葬った』と記しています。
この斉明帝の陵墓については、二〇一〇年九月に新しい発掘結果が公表され、斉明帝の二つ目の陵墓発見として大いに話題を呼びました。


4-1  宮内庁による斉明帝陵墓


宮内庁は、奈良県高市郡高取町にある車木ケンノウ古墳が、皇極帝(斉明帝)の墓であると認定しています。車木ケンノウ古墳は直径四十五メートルの円墳ですし、その近くに大田皇女の墓とされる円墳もあります。
「車木」という地名は、斉明帝葬送の車が来て止まったところ、すなわち「車来」であったとする地名起源説もあるようです。これに類似した説話として、菅原道真公の葬送牛車と太宰府天満宮起源の話がありますね。
 
4-2 新発見された斉明帝陵墓


新しく発掘された牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)は、車木ケンノウ古墳から北東に約二キロ半離れた、奈良県高市郡明日香村に所在する終末期古墳で、既に一九二三年三月に国の史跡に指定されていました。「牽牛子」はアサガオの別称であることから、指定時には「あさがおつかこふん」の読みでした。
二〇〇九年九月から二〇一〇年九月の発掘調査によって、この古墳が七世紀の天皇陵の特徴である八角墳(八角形墳)であることが判明し、牽牛子塚古墳が本当の斉明天皇陵ではないかという見方が強まっているのです。


明日香村教育委員会の発表によれば、『墳丘は地震により崩落していたが、高さ約四・五メートル以上と推定され、版築による三段築成の八角墳であること、墳丘の裾は平面八角形状に削られており、対辺の長さは約二十二メートルにおよぶ』ことが分かりました。
また中央部は巨石を刳り抜いて二つの石室(墓室)を設けた、特異な内部構造であることも分かったのです。