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序話 3-1 高句麗都城の変遷

3 都城の変遷と我が国への影響

3-1 高句麗都城の変遷

高句麗の築城技術は、九州の山城や大宰府羅城に大きな影響を与えていると考えます。

(一)卒本城時期

高句麗を建国した朱蒙(チュモン)が定めた首都卒本(ソルボン)の地は、現在の遼寧省本渓市であり、都城の卒本城は五女山山城に比定されています。

(二)丸都城時期

二世紀末から三世紀初めにかけて、卒本から鴨緑江岸の丸都城(吉林省集安市近郊)へ遷都し、平地の国内城に王宮を構えます。この国内城から少し離れた上流に、我が国でも有名な広開土王(在位三九一年~四一二年))の碑が存在します。

さらに五世紀には、遼河以西まで勢力圏を拡大すると同時に領域を南にも拡げ、大同江岸の平壌に遷都しました。



(三)平壌城時期

遷都直後は大城山城と安鶴宮(丸都城と国内城の配置と同じく、山城と平城のセットです)を拠点とし、清岩里土城を経て、本格的な城塞である平壌城へ居城を移します。

こうした山城と平城との組み合わせは、我が国の大野城と大宰府の配置に極めて近似しています。


また平壌城を挟む大同江の水勢を利用して、押し寄せた中国軍を撃退していますから、築堤や導堤等、河川を制御する高度な土木技術を高句麗は有していたようです。


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