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にほんブログ村 韓国百済の歴史と白村江の戦、そして福岡県水城堤との関連を紹介します

序話 3-2  百済都城の変遷

3-2 百済都城の変遷


百済の都城変遷の歴史は、むしろ悲劇の歴史です。

(一)漢城時期

四世紀の百済の都は、漢江下流南岸にあり、漢城と呼ばれていました。

漢城時代の百済は、南側に拡大を続ける高句麗との死闘を繰り返していましたが、四七五年には首都漢城を落とされ蓋鹵王が戦死してしまいます。


(二)熊津時期

王都漢城を失った当時、新羅に滞在していて難を逃れた文周王は、都を錦江岸の熊津(忠清南道公州市)に遷します。

熊津時期には、文周王、三斤王、東城王(暗殺)、武寧王(在位四七三~五二三)、聖王(在位五二三~五五四)と五代続きます。特に武寧王および聖王は、我が国とは非常に強い絆がある王です。

(三)泗沘(扶餘)時期

 六世紀には新羅が大きく国力を伸張させ、漢江流域も新羅の支配下に入ります。新羅の圧力を受け、聖王は五三八年、都を熊津から錦江下流の泗沘(忠清南道扶餘郡)へ南遷するのです。(なお新羅による半島統一後、泗沘は扶餘郡と改称され、現在では扶餘と呼んでいます)

この扶餘の扶蘇山城を中心とする羅城構築が、大宰府、大野城、基肄(きい)等の大宰府羅城のモデルであるとするのが定説です。しかし、扶蘇山城は海抜百八メートル、山城規模二・四キロ(百済時代の初期規模は一・五キロ)です。大野城の高さ四百十メートル、山城規模八キロと比べると、規模的に随分と見劣りがします。

高句麗の丸都山城(規模七キロ)、大城山城(規模九キロ)といった築城技術や、山城と平城の一体的配置、さらに河川制御の技術を考えれば、水城堤も含む大宰府羅城の築造初期段階には、高句麗系技術者の関与があったと考えるほうが合理的だと私は考えています。


大城山城(上)と扶蘇山城(下)の規模比較

高句麗の平壤遺跡と百済の扶餘遺跡を比べると、高句麗遺跡の巨大さが分かります(縮尺を、参照ください)


●扶餘の防御陣(下)
扶餘の街は白馬江によって三方向を守られ、防備の薄い東側は版築工法で固めた土塁を築いていました。これを羅城と呼んでいます




 




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