はじめに 百済をめぐる三つの講話です
はじめに
七世紀に活躍した二人の筑紫人、すなわち伊吉(いき)博徳(はかとこ)と大伴(おおとも)部博(べはく)麻(ま)を主人公にした小説『二人の筑紫人と白村江の戦』の出版以来、幸いなことに講話を依頼される機会が増えました。
主題とした「白村江の戦」(六六三年)、あるいは表紙の『筑前国大宰府水城切堀図』が示す「水城堤築造」(六六四年)から、ちょうど千三百五十年目の節目の年代であったことも、強い関心を呼んだのでしょう。
このページでは、それらの講話で取り上げたテーマの中で、皆さんから興味を示して頂いた、次の三つの講話内容を紹介しましょう。
第一話 白村江の大敗はなかった
第二話 水城堤は三段階で築造された
第三話 斉明帝はいったい誰だ
いずれのテーマも、従来の定説とは異なった新しい視点からの推論ですが、それなりの根拠は示しているつもりです。 『日本書紀』の解釈において「そんな考え方もあるのだ」と夢を広げるもよし、「そんな理不尽な」と一笑に付すも結構だと思います。 ただ古代史は一方的な視点からだけではなく、多面的な視点から捉えておかないと、本当の姿は見え難いものです。
『日本書紀』は実に素晴らしい古代の年代記だと評価しますが、誰がどんな意図をもって策定したか、またどんな創作やコピペがあるかを意識しておかないと、六世紀から七世紀初めに権力を振るった蘇我氏一族がより悪人に見えたり、中大兄皇子をアシストし大化改新を成功させた中臣鎌足(日本書紀編纂に深く関わった藤原不比等の父)がより賢者に見えたりします。
そんな疑問意識をもちながら、私の講話に接して頂ければ嬉しい限りです。