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第一話 3-5 百済亡国の悲報は早々と届けられていた

3-5 百済亡国の悲報は早々と届けられていた

 

大国唐と戦う恐さは、今では想像できないほど大きいと思います。よく日米開戦を引き合いに出す方もおいでですが、状況は全く違います。やっと国家の体を成しはじめ、政治制度や法制度、都形態や宗教・医術・文化まで見習うお師匠さまに立ち向かうのは、横綱と小学生の相撲のようなものです。日米開戦時と違って、ひとときの勝利さえ覚束ない力量差があったでしょう。

唐と戦端を開いたという愚策の論議を回避するために、「我が国は新羅を討ち、百済を救う」と考えており、唐との戦は眼中になかったという説(「出会い頭説」)があります。

気持ちはわかりますが、朝鮮半島への出兵が唐との直接対決となることは、案外早い時期に分かっていました。


六六一年五月に、第四回遣唐使は二年弱の唐滞在(六五九年八月~六六一年五月)を終え帰国しています。六六一年三月に斉明帝は筑紫入りしていますから、筑紫の地で遣唐使節から詳細な情報が報告されたことは疑いようがありません。

遣唐使節は

①百済国が降伏したこと

②百済王族・臣下五十人が、唐の洛陽に連行されてきたこと

③百済の地には都督府が設置され、百済は既に唐の属領となっていること

を伝えたはずです。


大国唐と戦う恐さを知った大和政権は、この六六一年五月に、もう「攻め」の意欲は完全に吹っ飛んでしまったことでしょう。

 

 

       4回遣唐使の移動軌跡

(6598月~6615)

 遣唐使は、那大津~百済~洛陽~長安(ここで幽閉)、そして長安~洛陽~済州島~那大津と移動し、661年五月に帰国しました




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