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6 「水柵(みずき)」から「水城(みずき)」への変遷

6 「水柵(みずき)」から「水城(みずき)」への変遷 


以上のような認識から、私論としての結論は次のとおりです。


第一段階(六世紀)


大和政権以前の九州勢力によって、初期段階の水城堤、大野城、基肄城、および九州内の神籠石山城は、既に六世紀に築造されていた。


九州勢力には、磐井の乱(五二八年)で敗れた筑紫君一族を想定しています。(筑紫君は磐井、その子葛子と続き、七世紀には筑紫君薩夜麻が書紀に登場します)


筑紫一族は大和勢力や九州南部の勢力と対抗するため、原太宰府(げんだざいふ)地域(大宰府設置以前の地域)を中心として、多くの山城そして柵を築いたと考えます。水城堤基底部の前面部の柵と壕は、六世紀の遺構でしょう。


「柵」は木材を立て連ねて一定の地域を画した我が国の防衛施設を意味し、『唐書日本伝』では、『国に城郭なく木を連ねて柵をなす』とあります。


この初期水城堤を、私は「水柵(みずき)」と呼んでおきます。さらに「水柵」が「水城(みずき)」へと名称が変化したと考えます。

 


法隆寺式の茨城廃寺(茨城県石岡市)から、『茨木寺』と墨書で書かれた土器が発掘されており、地名茨城(いばらき)は茨木(いばらき)から変化したものだとの認識されています。この寺は七世紀後半の国分寺以前の初期寺院で、時期や金堂等の配置には、斉明帝に関連の深い川原寺や観世音寺とも類似性があります。


「木」「柵」「城」の古代音の確認は未だですが、水柵(みずき)から水城(みずき)への変化も、あながち強引な論法ではなさそうな気がしています。



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