すがけいのブログ

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村 韓国百済の歴史と白村江の戦、そして福岡県水城堤との関連を紹介します

6 「水柵(みずき)」から「水城(みずき)」への変遷  その2

第二段階(六六〇年~六六三年)
 
百済降伏(六六〇年)の報を受け、斉明帝は筑紫遷宮を命じた。遷宮地は「水柵」に守られた原太宰府地域と定められ、斉明帝行宮(朝倉橘廣庭宮)の防衛強化のため、水柵、大野城、基肄城の改修工事が、高句麗系技術者の手を借りて六六〇年秋から開始された。(繕修城柵、断塞山川)
筑紫遷宮プロジェクトと筑紫防衛強化プロジェクトは、百済国降伏情報を契機とした同時期の総合プロジェクトだったと考えます。ですから「朝倉橘廣庭宮は、定説の朝倉地域でなく原太宰府地域に存在した」と推定します。
 
第三段階(六六四年~六六五年)
 
水城堤の改修工事は三年半の歳月を掛け、六六四年春に完成。
六六四年五月に来訪した唐使 郭務宋は、完成された水城堤の西門(大宰府官道)を通り、筑紫大宰府を訪問。また大野城、基肄城の改修も同じく六六四年春に、ほぼ完成。
但し大野城、基肄城の最終的な完成は、郭務悰より上位の唐使者 劉德高の来訪(六六五年九月、この時百済袮軍の同行が書紀に記載されています)に備えたと考え、書紀記述どおり六六五年八月としておきましょう。
 

×

非ログインユーザーとして返信する