5. 推論を裏付ける二つの外交情報
六五九年八月に出発し、約一年六か月もの間、唐に滞在した第四回遣唐使が何を見聞したかは、重要な情報です。
六六〇年夏に百済国は降伏し、その年十一月に百済義慈王、王子隆ら五十人もの百済人が、唐の首都洛陽に連行されていきます。この時、遣唐使一行はこの百済の虜囚たちの哀しい姿を見ています。というより、唐は意図的にこの虜囚の姿を倭国の使節団に見せたのでしょう。
5-2 唐使 郭務悰の来訪
白村江での敗戦後、唐との最初の外交交渉は、白村江の敗戦から九か月後の六六四年五月です。この時の使者は唐使郭務悰(かくむそう)です。
郭務悰は敗戦国である我が国に対し、百済王族連行時(六六〇年)のような強い要求をすることもなく、八か月の筑紫滞在のあと、十二月には帰国しています。郭務悰は帝が所在する飛鳥にさえ赴かなかったという外交大失態にも係わらず、特に罰せられることも無く、昇進を続けその後も来倭してきています。これも不思議です。
書紀の記述どおり筑紫羅城を築造した(六六三年九月~六六五年八月)とすると、その築造のまっ最中に唐使が来訪(六六四年五月)し、しかも八か月も筑紫に滞在していたことになります。
郭務悰は水城堤を初め大野城、基肄城の突貫工事を、指を咥えて見続けたのでしょうか。
この郭務悰の筑紫訪問の記録を考慮すれば、六六四年五月には少なくとも水城堤は完成し、大野城、基肄城もその時期にほぼ外容は整えられていたと私は考えます。