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にほんブログ村 韓国百済の歴史と白村江の戦、そして福岡県水城堤との関連を紹介します

3 定説への疑問

3 定説への疑問
 
3-1 工期に関する疑問
 
工期への疑問については従来から存在していました。六六三年夏の白村江の敗戦後着手し、水城堤が六六四年完成、大野城、基肄城が六六五年夏完成では、三つの大規模構造物の総工期が丸二年しか存在しません。技術的にはかなり困難な工程です。
しかも三つの構造物は平面的ではなく、地形を俯瞰し山川を利用して構想・計画されています。航空地図も無い時代に極めて壮大な計画を立てたわけですが、この構想・計画時間も含めて丸二年なのです。
白村江で大勝し勢いに乗った唐が、我が国に攻めてくるかもしれないという恐怖感が築造を早めたといわれていますが、水城堤の河川制御も含む丁寧な施工技術を含め、この短期間での施工は土木屋としては全く納得し難いのです。




 
3-2 築造開始時期の疑問
 
築造の切掛けといわれる白村江の戦ですが、
『倭軍の四百艘の舟は燃え上がり海水は真っ赤に染まった』と、『旧唐書劉仁軌伝』に記録されています。
確かに倭軍が大帝国唐と戦い、そして大敗したのですから、我が国の恐怖は大きかったといえるでしょう。
しかし、その三年前の六六〇年夏、十三万人もの唐軍が百済に押し寄せ、友好国百済国を一瞬の間に降伏させたという情報も、我が国に大きな恐怖感を与えているはずです。
「たかが三年」の違いかもしれませんが、論理的には、「されど三年」という大事な時間差なのです。

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