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にほんブログ村 韓国百済の歴史と白村江の戦、そして福岡県水城堤との関連を紹介します

2. 水城堤築造時期の記録

2. 築造時期の記録
築造時期に関しては、『日本書紀』(以下書紀と略す)にしか記述されていません。これらの大規模構造物に関する書紀の記録を、まず紹介しましょう。
 
2-1 水城堤・大野城・基肄城の築造時期
天智三年(六六四年)是歳(このとし)条には
『筑紫に大堤を築き水を貯えた。名を水城という』とあり、水城堤が六六四年(是歳ですから、何月かは不明です)に築かれたということは明確です。
また天智四年(六六五年)八月条には
『達率(だっそつ)憶礼福留と達率四比福夫を筑紫国に遣わして、大野と椽の二城を築かせた』
とありますから、大野城、基肄城の二城についても、六六五年八月に完成したと考えても良いでしょう。
さらに百済の達率(佐平一品に次ぐ、二品の位階)であった憶礼福留については、「六六三年九月に百済を発ち我が国に亡命した」と書紀に記述されていますから、大野城、基肄城に関しては、六六三年九月以後に築造を開始し、六六五年八月に完成したことになります。
ですから工期は、最長で丸二年ということになります。
 
2-2 「繕修城柵、断塞山川」の記録
神籠石については築造記録が残っていませんから、色々な説が展開されています。
大きく分けると、斉明女帝の筑紫遷宮および白村江の大敗に関連して大和政権が築造したという説と、書紀に記録が無いのだからそれ以前の九州勢力(大和政権に未だ服属していなかった勢力)が築造したという説になります。
この関連で以下の文章が引用されることが多いですから、紹介しておきましょう。
書紀斉明四年(六五八年)是歳条には
『庚申(こうしん)年(六六〇年)七月百済陥落の報がもたらされ、これに由りて、兵率を西北の畔に陣し、城柵を修繕し、山川を断ち塞いだ』
(陣西北畔、繕修城柵、断塞山川)と述べています。
この「城柵を修繕した」という記述から、白村江以前に築造されていた神籠石の改修工事を意味しているという説(すなわち神籠石は、白村江以前に既に築造されていた)も発表されています。
いずれにしろ『陣西北畔、繕修城柵、断塞山川』は、水城堤および大野城・基肄城の築造と強い関係がある一文と考えてよいと思います。
 

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