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第二話 水城堤は三段階で築造された 1. 水城堤および九州の山城



第二話 水城堤は三段階で築造された 


白村江の戦(六六三年八月)において唐・新羅軍に大敗し、勢いに乗る唐の侵攻を恐れた我が国は、筑紫の地に筑紫防衛ライン(水城堤・大野城・基肄(きい)城)を構築します。


 水城堤が、六六三年の白村江での大敗を契機として築造されたことは、殆ど否定する人のないくらい常識的な定説なのです。しかしながら・・・・。 


1. 水城堤および九州の山城


まず六六〇年前後に築造された九州の大規模構造物として、水城堤および幾つもの山城(朝鮮式山城および神籠(こうご)(いし)山城)の概要を紹介します。 


1-1 水城堤の規模と工法


水城堤は、博多湾に上陸する敵(唐と新羅)の攻撃から大宰府を守るため、直線状の土塁と濠で構成されています。土塁の長さ一・二キロ、博多湾側にあった水濠は幅六十m、総土量は約四十万立方メートルと巨大です。(なお本水城堤に連なるように小水城堤も存在しています)


土塁は、砂と粘土を交互に突き固めながら何層も重ねる版築工法が使用されていますが、これらは大陸からの伝来工法で、我が国にも先行事例があります。


基礎には、樹木の枝葉を下層に敷き詰め、沈下を抑える敷粗朶工法が使用されています。この工法に関しても水城堤が初めてではなく、畿内には茨田(まむた)堤(大阪府)等の先例があり、茨田の築造には主として新羅人が関わったといわれています。 


1-2 大野城、基肄城(朝鮮式山城)の規模


大野山(標高四一〇m)には、約八キロに及ぶ土塁や石垣が山腹をめぐり、幾つもの城門の跡が現存し、また城内に多数の建物礎石が発見されています。有事には、大野城が大宰府の機能を持つ逃げ城だったと考えても良いでしょう。


また基肄城は基山(標高四〇四m)に築かれ、約四キロの土塁と石積それに水門や多数の建物礎石が残っています。山城の分類上、これらを朝鮮式山城と呼んでいます。


水城堤・大野城・基肄城の築造によって、ちょうど大宰府を取り囲むかのように連なる防衛ラインが出来ますから、これを筑紫羅城と呼ぶことが多いようです。





 


1-3 神籠石山城の位置


神籠石山城(以下神籠石と略します)は、福岡県内の雷山(らいざん)、高良山(こうらさん)、杷木、女山(ぞやま)、鹿毛馬(かげのうま)、御所ヶ谷(ごしょがたに)、佐賀県の帯隈(おぶくま)山、おつぼ山および山口県の石城山(いわきざん)があり、一九九九年には筑紫野市の阿()志岐(しき)山城が神籠石に加えられました。神籠石に関しては、まだまだ未発見・未認定の城跡が存在していると私は考えています。




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