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にほんブログ村 韓国百済の歴史と白村江の戦、そして福岡県水城堤との関連を紹介します

第一話 4 白村江の大敗は無かった

4 白村江の大敗は無かった

 

以上のような認識から、私論としての結論は以下のとおりです。

 

親百済派 斉明女帝の崩御(六六一年七月)を契機に、国破れた百済王族の悲哀を知る穏健派により、勝ち目の無い百済派兵は中断された。

その結果、白江の戦(六六三年八月)は、唐将劉仁軌軍と百済王子豊璋軍(倭人を含む)との小競り合いに過ぎない、すなわち白江もしくは白村江での倭軍の大敗は無かった。

 

こういう大胆な結論を示しますと、「白村江の戦」を契機として築造された筑紫羅城は何のために造られたのか、或いは何故書紀は国家の大敗をわざわざ記録したのか、といった疑問が噴出するでしょうが、別の機会に譲らせて頂きましょう。

 

 

旅 白馬江と錦江

 

白馬江は錦江の別称ですが、扶餘を流れる区間だけが白馬江と呼ばれています。ですからこの大河が黄海に流れ出す下流部は、錦江ということになります。『唐書』等に出てくる「白江」は、船による海上戦が行なわれた地点ですから、この大河の下流域であれば「錦江」と呼ばれるはずです。

海戦のあった「白江」の候補地は、黄海沿岸部に複数存在していますが、類似地名と白江近辺とされる周留城しか手掛かりがなく、今も特定できていない状況です。

 

なお日本書紀の地名「白村江」は、『高麗沙門道顕日本世記』からの引用であり、この地名は僧道顕の造語であると私は考えています。(日本史を選択された方はご存知でしょう。白村江は「はくすきのえ」と読まされ、よくテストに出題され私は間違えたものです)

 

●本書に登場する地名の概略図です。扶餘の街は海岸部から錦江沿いに40キロ強の距離にあり、案外奥まった内陸部にありました。


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