すがけいのブログ

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村 韓国百済の歴史と白村江の戦、そして福岡県水城堤との関連を紹介します

第一話 3-7 敗戦国として処遇されていない

3-7 敗戦国として処遇されていない

かりに白江の戦で大敗を帰し、我が国が唐の敗戦国であったとするならば、その処遇において矛盾が生じています。

唐の敗戦国への基本的な処遇は、都護府設置による羈縻支配です。羈縻支配は周辺諸国において既に手馴れた手法であり、我が国に適用することは十分可能であったはずです。ですから日本書紀において「筑紫都督府」という固有名詞が出現するため、これを理由に、我が国は白村江の敗戦後に羈縻体制に組み込まれたと説く方もおいでです。

しかし戦勝国である唐の記録には一切現れず、日本書紀のみに出現する一つの固有名詞のみで、羈縻支配の存在を主張するのはやや無理があります。

 

羈縻支配に次いで、唐が主導権を握る対外政策は冊封です。しかし天智帝以降も帝名や年号は、宗主国であるはずの唐の承認を受けた様子はありません。

すなわち我が国が敗戦国として処遇されたことを示す記録は、皆無に等しいのです。もちろん遣唐使という緩やかな朝貢関係は継続していましたが、これも菅原道真公の英断により八九四年に廃止してしまいます、この英断のおかげで、我が国は中国支配下に置かれていたなど、歴史認識における無謀な領土問題に発展することはないようです。

(なお琉球国(第二尚氏 王統時代)に関しては、残念ですが明国の冊封国であった事実はあります。)

唯一、六六五年の「泰山封禅の儀」への倭国参加だけが、唐と我が国の主従関係を示しているように見えますが、この倭国参加には、当時熊津鎮将であった劉仁願に対して、熾烈な功名争いをしていた劉仁軌の思惑と演出が含まれていたと捉えるべきですが、この話についてはここでは割愛します。

×

非ログインユーザーとして返信する