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にほんブログ村 韓国百済の歴史と白村江の戦、そして福岡県水城堤との関連を紹介します

第一話 白村江の大敗は無かった 1-1 中国(隋・唐)と高句麗の確執

第一話 白村江の大敗は無かった


  六六〇年、百済国は唐・新羅連合軍に破れ国家は降伏しますが、百済復興を願う民が抵抗軍を組織します。我が斉明女帝は大和から筑紫に遷宮(朝倉(あさくら)橘廣庭宮(たちばなひろにわのみや))し、百済救援軍の派遣を指揮。しかし朝鮮半島白村江の海戦(六六三年八月)において唐・新羅軍に大敗し、勢いに乗る唐の侵攻を恐れた我が国は、筑紫の地に筑紫防衛ライン(水城堤・大野城・基肄(きい)城)を構築します。

 六六三年の白村江での大敗は、往時の我が国にとって国家存亡の最大の危機であったと、今でも教科書では教え継がれています。

  しかし本当にそうでしょうか。大国である唐に無謀な戦を挑み大敗したという「白村江の戦」には、私はどうしても疑問を感じる点があるのです。それは当時の大帝国唐の巨大軍事力を知るからです。

 

1 百済と高句麗が相次いで滅亡した六六〇年代

1-1 中国(隋・唐)と高句麗の確執

  六世紀前半には、中国東北部を流れる遼河の南岸から朝鮮半島にかけては、北の高句麗に南の百済と新羅という三国分立の形態が出来上がっていました。

  その中で最も強盛であったのが平壤に都を置く高句麗でした。高句麗と国境を接する中国との戦は、隋時代の五九八年から始まっています。特に六一二年の煬帝(ようだい)による公称二百万人の高句麗遠征は有名で、韓国ドラマにも登場することが多いですから、皆様もご覧になったかもしれません。しかしこれら数々の隋の侵攻は失敗に終わり、それが隋の国家崩壊に繋がったといわれています。

 

  さらに唐時代になっても高句麗侵攻は続き、六四五年の太宗(第二代皇帝)による水陸十万を越える兵力での遠征を初め、六四七年、六四八年と大軍を繰り出しますが、遼河、鴨緑江という大河を活かした数多くの城砦に守る高句麗兵と、厳しい寒さの冬将軍に撃退されています。

  結局、高句麗が唐に降伏するのは、百済陥落八年後の六六八年になります。これは高宗(第三代皇帝)の時代です。



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