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第一話 1-2 唐の百済侵略と高句麗攻略

1-2 唐の百済侵略と高句麗攻略

朝鮮半島に眼を移すと、高句麗と百済そして新羅の三カ国がそれぞれの領土占有を巡って、常に小さな争いと外交課題が存在しながらも、三竦みの微妙な均衡感を保っていた時代でした。

高句麗への北側からの攻撃で失敗を繰り返した唐は、南側からの攻略を考え、その第一歩として目障りな百済侵略を考えます。ちょうどその折、冊封国である新羅から救援要請が届いたこともあり、唐は六五九年から百済侵略と高句麗攻略の準備を始めています。

一方百済は隣国新羅との攻防に追われ、唐が黄海を渡って攻め寄せてくるとは予想だにしていませんでした。

六六〇年五月、唐軍大総督蘇定方は十三万の兵を率い中国山東半島から出撃、黄海を渡って百済に向かいます。七月に新羅軍五万の兵と合流し、七月十三日には百済の王都である泗沘城(扶餘城)を包囲し、七月十八日、包囲後一週間足らずで百済三十一代義慈王を降伏に追い込んでしまいます。

この王都陥落の日、城内の女官数千名が白馬江(錦江)を眼下にした岸壁から身を躍らせて投身したといわれ、その岸壁が「落花岩」と名付けられ、現在にもその哀話は語り継がれています。

大軍を擁して素早く百済を降伏に追い込んだ唐は、百済に都督府を設置し唐の軍事管理体制に組み込みます。そして高句麗宰相 淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)死後の内紛を利用して、六六八年宿敵高句麗を遂に降伏させます。

その時間経緯の中で白村江事件(朝鮮半島南西部海岸の地名、但し地点は今も特定されていない。『日本書紀』では白村江、『唐書』等では白江と記載)は起こります。

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