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第一話 2『唐書』等が示す百済派兵と白江の戦

2 『唐書』等が示す百済派兵と白江の戦

2-1 『日本書紀』による百済救援軍の派兵規模

『日本書紀』(以下書紀と略す)では、我が国から百済への派兵規模を次のように記録しています。

①六六一年八月、前軍後軍の二軍編成による派遣(兵力不明)

②六六一年九月、百済王子豊璋に兵五千余を付けて送る

③六六二年五月、軍船百七十艘で豊璋を送る

④六六三年三月、前軍中軍後軍の三軍編成による二万七千人

⑤六六三年八月、廬原(いおはら)率いる一万余人

 このうち②と③は同じ事象を表わしたと考えるのが一般的で、六三一年(舒明三年)に我が国にやってきていた百済王子豊璋を、百済復興軍の要請に応えて生国百済へ帰したことを記録したものです。

この記載どおりですと、我が国は数万人もの兵士を朝鮮半島に送り、そして白村江で唐軍に敗れるわけですから、国家としての緊張感は最大限に張り詰めたに違いありません。その緊張感が、大規模な防衛ライン(水城堤・大野城・基肄城)を短期間で築かせたと言われれば、そうかもしれないと納得しても当然です。

 

2-2 『唐書』が記録する「白江の戦」

『旧唐書』の『劉仁軌(唐の武将)伝』では、六六三年に

仁軌遇倭兵於白江之口 四戰捷 焚其舟四百艘 煙焰漲天 海水皆赤 賊众大潰 餘豐脱身而走

(劉仁軌軍は白江口で倭兵と出会い四戦とも勝った。四百艘の舟は燃え上がり海水は真っ赤に染まった。賊は大敗し、扶餘豊(百済王子)は逃げ去った)とあります。

 

 『旧唐書劉仁軌伝』を含め、中国および半島の歴史書には、六六三年の白江の戦は以下のように記録されています。

『旧唐書』(九四五年完)

  ①本紀高宗『顯慶五年八月庚辰 蘇定方等討平百濟 面縛其王扶餘義慈(「百済義慈王は降伏した」のみで、白江の戦いの記述はない)
 ②列伝劉仁軌伝『仁軌遇倭兵於白江之口 四戰捷(仁軌は倭兵に白江の河口で出会った。四戦勝った) 
 ③列伝東夷百済国『仁軌遇扶餘豐之衆於白江之口 四戰皆捷』(仁軌は百済豊が率いる一軍に白江の河口で出会った。四戦皆勝った
『新唐書』(一〇六〇年完)  

 ④本紀高宗『龍朔三年九月戊午 孫仁師及百濟戰于白江 敗之』(「孫仁師と百済は、白江で戦いこれを退けた」のみで、倭国と戦いの記述はない) 
 ⑤列伝劉仁軌伝『遇倭人白江口 四戰皆克(白江の河口で倭人に出会った。四戦皆勝った 

 ⑥列伝百済『豐众屯白江口 四遇皆克(白江の河口に豊がいた。四戦皆勝った 

『三国史記』(一一四五年完) 

 ⑦新羅本紀文武王『扶餘豊脱身走(「百済豊が逃げた」のみで、白江の戦いの記述はない) 

 ⑧新羅本紀文武王大王報書倭船千艘 停在白江 百濟精騎 岸上守船(倭の船千艘が白江に停泊し、百済の精兵が岸からこれを守っていた) 

 ⑨百済本紀義慈王『遇倭人白江口 四戰皆克白江の河口で倭人に出会った。四戦皆勝った


 このように『唐書』でも『三国史記』でも、倭兵(あるいは倭人)と戦ったこと、そして四回戦い全て唐軍が勝利したことが記録されていますから、倭国(当事我が国は倭国が国名、国名が日本となるのは八世紀初)の水軍が、唐の将である劉仁軌に敗れ、多くの血を流したと理解されているわけです。

 ただし、唐の正史を伝える『新唐書(本紀)』においては、倭国との戦という表現はなく、「百済を白江で破った」と極めて軽く扱われていることにも留意下さい。

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